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ブラタモリのことを語る

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>〇今の喜劇につながるのに歌舞伎役者が絡んでる、というのがさらっと流れてたけど、いったい誰なんだろう

https://www.shochiku.co.jp/shinkigeki/about/
喜劇百年の歴史・松竹

■喜劇誕生

改良俄で鶴家団十郎が人気を博していたころ、歌舞伎の中村珊之助という役者がいた。堺から大阪へ丁稚奉公に出たが、芝居好きが嵩じて、十六歳の時に中村珊瑚郎の弟子になった。その珊之助が改良俄を観て「笑う芝居」を志す。手元にあった文芸倶楽部という雑誌のなかの尾崎紅葉が訳した短編小説の「喜劇夏小袖」というタイトルから、その「喜劇」をいただいて、中村歌六の弟子で同じ役者仲間の中村時代を誘い、「新しい喜劇」の一座を結成することになった。

(略)

名前も曽我廼家五郎、曽我廼家十郎とし、座員一同も曽我廼家を名乗った。演目も従来の「滑稽勧進帳」「壺坂」などの歌舞伎もじりのお笑い狂言であるが、おりしも日露開戦の火蓋がきっておとされ、号外の声けたたましいなかの不入りの初日であった。しかし、そこに目をつけた五郎の才覚で、日露戦争を取り扱った「無筆の号外」という創作現代劇を急遽差し替えて上演、これが大当り。この成功を契機として従来の俄のつまらぬクスグリや下品な笑いを端折った、とくに歌舞伎俄などをさらにグレードアップした演目や、一堺漁人(五郎)、和老亭当郎(十郎)のペンネームで新作狂言にも挑む二人の力のこもった舞台が、後の京都、神戸、東京、名古屋でも好評を生み、順調な評価を得て、商業喜劇団として成長していった。

中村珊之助が後の曾我廼家五郎、中村時代が曾我廼家十郎だそうです。

https://www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji/61_soga.html
旗揚げ100年記念 喜劇の元祖-曾我廼家五郎・十郎展・大阪府立中之島図書館 2007.12.06

大阪で喜劇が誕生して、今年でちょうど百年になります。曾我廼家五郎・十郎のおこした曾我廼家兄弟劇が、日本で初めて「喜劇」をうたった演目を上演し、道頓堀の浪花座で大当たりを取ったのが明治37年(1904)。それ以降、曾我廼家五郎・十郎は、時代の変化を敏感に捉えた新しく、かつ人情味あふれる喜劇で、庶民の哀歓を笑いのうちに表現し、大人気を博しました。やがてその芸風は松竹新喜劇に受け継がれていきました。

(略)

〈曾我廼家喜劇の沿革〉

五郎・十郎の出会いと兄弟劇の旗揚げ

「喜劇」という新しい演劇を興した曾我廼家五郎、十郎はともに歌舞伎の大部屋役者の出身であった。五郎は明治10年(1877)生まれ。本名和田久一。明治18年に父に死別したので、母の実家である堺の寺に引き取られたという。やがて役者となった五郎は、中村珊瑚郎の弟子となり、中村珊之助の芸名で舞台に立っていた。一方、十郎は明治2年生まれ、伊勢松阪の商家の出身で、本名大松福松、中村歌六の弟子で芸名を中村時代と言った。珊之助と時代は旅回りの一座で出会い、初対面から不思議と気が合ったという。やがて一座を抜けた珊之助は、鶴屋団十郎の俄からヒントを得て、笑う芝居=「喜劇」を思いつく。珊之助は時代を誘い、新しい芝居の準備を始めた。

「無筆の号外」

珊之助と時代は旧知の素人仲間を誘い一座を結成し、明治36年(1903)伊丹の桜井座で旗揚げ興行をするが失敗。各地を転々とするが、日露戦争直前の不穏な世情のなかで劇場がさびれていたところに再び機会を得、明治37年2月10日、道頓堀の浪花座で公演することとなる。その日はたまたま日露戦争の開戦の日にあたり、その戦争に当て込んだ芝居「無筆の号外」を3日目から上演したところ、大当たりとなり、曾我廼家兄弟劇は一躍スターダムに上ることとなった。

(以下略)