また、この問題を考えるのに重用なことに「偽善」なる語そのものがしばしば建前を語ることに向けられることの正しさなのだが、実のところ単に建前を語った時点でそれの意図は断定することができず、ある人が偽善的であるかどうかと言うことはその人の振舞いの多くを総合的に判断する必要がある。
そういった性質上、ある人のなんらかの行為を捉えた上で「偽善者」と言う批難のしかたと言うのはほとんど不可能で、また、根本的な態度と建前の不一致は、実は自身の態度を改善して行く段階でしばしば行なわれるのだから、よりよく生きようとすることは本質的には「偽善者」として生きることにほかならないことを考えると、「偽善」と言うのは批難たりえるのかと言えば甚だ疑問でもある。
とは言っても、全くと言っていいほど、建前と実態を乖離させてしまっている人というのもいるので、こういったものに対しては相応の批難が必要だし、あるいはある乖離がある思考の限界の原因となっていると見えるときに、その批判が有効手となることもあるんだけれど、こういうときには注意深く精密に言葉を選んで行く必要があるのだと思う。