『英国一家、日本をおかわり』マイケル・ブース(著)寺西のぶ子(訳) 角川書店
アニメになる前に『英国一家、日本を食べる』『英国一家、ますます日本を食べる』を読んでたので、あのアニメ(正月の特別編まで全部見た←)についてのあれこれ言及にはにやにやした。
たぶん前作は、本来は一冊の本を、日本版では食べ歩き中心のパートと、より食文化論に近いルポルタージュパートの二冊にわけて出版したんだろうと思う。この本は『ますます』の方に近い。食文化の体験と考察。あいかわらず笑わせてくれる体験記だけど、今回は辛口の(真っ当な)指摘も多め。
印象深かったのは、函館で体験したマスツーリズムの影響、なぜラーメン職人は哲学を語るようになってしまうのか(笑)、イギリス出身で今でもどうしようもなくイギリス人だと自覚しているのだけど恥ずかしながら紅茶を(ついでにコーヒーも)まったく飲まない、しかし日本茶は大好物という話、それから米についての考察。
特に米。
「日本人にとって米が特別な意味を持つ食材だということは承知しているが、それがなぜ米なのか、米でなければならなかったのか」という疑問と指摘。おいしいことはわかる、とんでもなくおいしい米も食べたけれど、それはやはり著者にとっては単なるおいしいものであって特別な意味は持たない、むしろ副食として添えられるもののほうが心をひかれる、わからない、と。
著者は親子で田植え体験をすることによって、自分にとっての特別な意味を米に見いだせるようになるのだけど、それはたぶんやっぱり彼の個人のものであって、彼の疑問の直接的な納得いく答えにはなってないよね。難しい疑問だと思う。
思い出したのは、テレビで見た、外国人にした日本のパンについてのインタビューで「おいしいのもあるけど好きじゃない、なんでもかでも使っておもちゃにしすぎだ」「パンはわたしたちにとって神聖な意味を持つこともあるものだ」って答えた人がいたこと。カトリック多数派の国の人だったと思う。スペインとかイタリアとか。これ聞くまでパンの意味なんて考えたことがなかった。
これと同じようなことが日本人にとっての米についても言えるんかもしれない。とちょっと思った。宗教による意味づけみたいなもの。
他の本の訳者あとがきによると、マイケル・ブースはカトリック信仰を捨てた徹底的な無神論者とのことなので、その可能性について考えを聞いてみたいような気もちょっとした。