まぁ、より自然には、とても愛したペットの死は、見知らぬ人物の死の何万倍も悲しいとか、実のところヒトとヒト以外と言う分け方は感情的距離感とは異なったりもするわけで、戦争や悪政など社会の問題に殺される見知らぬ人々に対する思い、「それはもしかして私や愛する人々だったかもしれない」と言うことを合わせて考える訓練の結果引き寄せられるものだったりするわけで、実のところ人権の「不自然な感じ」はこの「想像力」の為のプラクティスを背景としているのであって、別に宗教的背景ではないのではないかと思うわけで。
で、何のためにそういった訓練をするのかと言えば、大規模な社会の為にはなんらかの大規模システムを必要するという考えがあって、そのシステムを暴走させないためにはむしろ"自然に"生まれてくる知恵だったりするんだけれど、極めてアナーキーにそういったシステムそのものが要らないって立場に立つのならともかく、むしろそのシステムの恩恵については疑いなく享受する人々の方がその「不自然な感じ」を攻撃する場合、本懐にあるものはやはり「我が亡き後に洪水よ来たれ」でしかないわな。