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日常のことを語る

長崎の大浦天主堂のそばに資料館があって、キリスト教禁教時代にはキリスト教を信仰していてもいちおう寺の檀家にはなっていて、葬儀も仏式であげておき、あとでこっそり枕もとでキリスト教式の(たぶん勤行次第とは言わないのだろうけど)葬儀次第をおこなっていた、というのを知った。それが印象的で、両親が眠る寺@神奈川で方丈さん(うちの宗派では坊さんをそういう)になにかのときにその話をしたら、方丈さんが神奈川だったか北陸だったかききそびれたけど若いころに葬儀で通夜をしたあと、夜起きたらこっそり地元の人が念仏を唱えながら通夜をしていたそうで。それをみてなにも言えなかった、ということを述べてた。
話はいつものように横に素っ飛びます。
私は信仰があって日常として勤行してるのだけど念仏を唱える宗派の人も念仏はほぼ日常としてふつうに念仏を唱えてるはず。ただ表向き、既存の宗教や習俗が強い地域では信仰を表向きに言い出せない場合、やはり既存の宗教や習俗にどこか配慮してしまうのだとおもう。左義長のあとの念仏の口開けという言葉にもそれがあらわれてる気がしてるのだけど、もちろん私は研究者じゃないので断定できない。うむ、まとまらねえ。
とりあえず仕事してくるなっし。