密教と顕教というものは別に仏教だけじゃなくていろんな場面にあると思っている。
とりあえず自分で考えることが出来るだけのリテラシがある人がそれを用いて世界を認識するのに用いるのが密教、そのリテラシの無い人が自他に対する悪影響を最小限にしたり便利に使えるようにとりあえず受け入れるものが顕教って感じで。
いや、「交通信号は何如なるときも守るべきものかどうか」と言う問いに対し「車が来ないことが明かなのに信号を守るのは愚かだ」と言う意見と「想定外のこともあるのだからとりあえずルールは守るべきだ」と言う対立にもやもやしていたのだが、こういうのは密教と顕教で考えるとわりとすんなりするんじゃないのかなと。
で、密教など存在しないと考える顕教者も、密教者であるに十分なリテラシもないのに自らを密教者だと考える人も同様に愚かで、後者の方が一人あたりの悪影響は強いんだけれど、前者が増え過ぎるとなんとなく問題もあるって感じなのかなとか。