罪の本質は影響であり原因ではない。
だからそこに「意図」があるかどうかという原因はどうでもよい話で、だから「悪いと判っていてやるのは尚悪い」というのは間違い。
この「悪いと判っていてやるのは尚悪い」と言う発想は、もともと「邪悪な存在」と「善良なる存在」があると言う仮定のもと、「悪いと判っていてやる」ことが自らを「邪悪な存在」にわざわざ近付けるものだと言う発想の元にあると思う。
ただ、何らかの状況により「悪い」と思うようなことをする選択せざるをえないときに、その行為の悪影響への否認が始まり、やがて遠慮なく罪を重ねる存在となってしまう、むしろ「邪悪な存在」そのものと化してしまう。
たとえば徴兵などで戦場に送られた人が、命令により殺人や略奪をくりかえしたとする。
このときに心を痛めながら仕方なくやってしまって、戦後そのことを悔い続ける人と、「どうせ世界は弱肉強食なんだ。だからこれは悪くない」と戦後に詐欺紛いのビジネスをしながら警察に接近しつつ自らの安全を確保し、多くの被害者達に泣き寝入りを強いるような人とどちらが「邪悪」なんだろうか。
で、このへんの誤謬がよくある「××する意図はなかった」と言う「謝罪」に繋がるのだと思う。