愛着と愛は別物で、前者は単なる同化への欲望、後者は同化の不可能性を受け入れ、その対象が持続することを祈り、その上で行動を選ぶ。
まぁ、子育てなら前者は過干渉の毒親的態度に発展し得るが、後者は子供の自我を認めるようなもの。恋愛ならば前者しばしば支配関係を作ろうとするが、後者は学びあえる関係性を喜ぶような感じだろうか。
そして愛着の方がより原始的、根源的な欲望であり、愛は愛着が破滅的なことを理解した上で導き出し得る持続可能な最善解とともにあることを喜ぶようなもの。
まぁ、博愛なき愛は愛にあらずとも言えるかもしれない。
で、しばしば繰り返される「愛国」問題、いやそれを声高に叫ぶ人ほど国をボロボロにしてたり、その問題から目を背けようとしてんじゃん、そんなの愛国なんかじゃねぇよってのと、「うるせぇ反日」みたいのの対立は、実は声高に叫ぶ人のいう「愛国」の「愛」は愛ではなくて愛着なんじゃないかと言えば合点が行くところもある。
愛の動機の根源に愛着があって、でもその愛着への絶望が愛に転化するのだから、愛着の中に留まりたい人々にとっては愛の方が恐しいってことはあるのだろうと。
そして、愛着の中に留まると言うことは、同時に極めて幼児的でもあり、それが欺瞞でないと言うのならばある種の育て直しのようなものを求める悲鳴である可能性も考えておいたほうがいいのかもなとか思う次第。
まぁ、「それが欺瞞でない」のならばだけれど。(少くともページビュー目当てのアフィカスみたいのは欺瞞だよね)
愛のことを語る