論理は構成する命題の全てが真である必要があって、ごく僅かな偽を含めることで結論を歪曲することが出来るが、その見た目は多くの正しい命題によって恰も正しいことのように見える。
しかも、愚直な演繹の結果、想像もつかなかったような結論が導かれ得ることを私達は知っているので、とんでもない結論であっても受け入れてしまいそうになる。これを用いた数学ジョークが「1=2の証明」だが、この場合推論に用いるものが数学分野に限られているので、ある程度の数学的リテラシがあれば比較的容易に偽の命題を見付けることができて、パズル的な面白さもある。
ただ、より要素の多い社会科学や政策などについては、この一見演繹的な思考がしばしば悪用される。こういった分野には願望も含まれ得るので結論を目掛けて推論を組み立てられやすい。そして部分的な正しさをもって「これを判らない奴らは頭が悪い」と信じ込ませる材料になる。
こういったものを嗅ぎ分けるのに、どうやったらってのは、ひとつは論争の空間における勢力分布のようなものに対する勘とかも助けになるんだけど、でも自分自身が間違っている場合にはそれは何ら助けにもならないし、そして間違っている人を救うこともできない。
1=2の証明のことを語る