被差別の体験は差別を憎む切っ掛けになることは確かなんだけど、被差別者が「でも私はあの人達よりはマシなはずだから」と別の差別に救いを求めることでむしろ差別をより深く内面化することもありえるわけで、被差別の体験と言うのは差別を憎む条件としては不十分らしい。
尊厳の回復のために、自らを差別した言説の瑕疵を見つけようとするとき、人権思想のようなものをある程度参照できる場合には自らに対する差別を一般化して考える切っ掛けにしやすいとは思う。ただ、そういうものに触れられないとか、「机上の空論」のように捉え頼りがないと考えられてしまう場合は、そういった一般化も、一般化した差別を憎むことにも繋がらないのかもしれない。
そもそも人権思想のようなものに触れられなかった場合はさておき、触れても「机上の空論」と考えてしまう場合、その人にとっての正しさとは周囲の人々の承認を前提としてしまうわけだけど、当然こういった人は周囲が狂えば自らも狂い、場合によっては周囲の模範たらんと苛烈に狂ってしまう。
その原因を神の不在に求めるのは簡単だろう。そして自分自身が具体的な周囲よりも、神とも言える大文字の他者を重んじてしまうのは正に宗教的体験(神秘体験とかじゃないよ。)に由来しているわけで、渦中にいるときはそれなりに苦しんだものだからこんなものを解決にしたくはない。
差別のことを語る