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自分(id:lieutar)のことを語る

どうも最近よくある解説に、「まぁ、そう言える側面もあるけど、それそのものと考えるのは危険よね」って思う。
普通なんらかの込み入った話をする場合、最初に定義を作るが如くそういう解説がなされたりするのだが、そういうものへの警戒心が解決されないまま続く話と言うのは汚染が拡がった膨大な汚物の中を泳がされているのではないかって気分になってしまったりしている。
たとえば

  • 「西洋は自然を敵対するものとしていて、それに対し我らがアジアでは…」
    • 豊かな自然の中で育まれたヨーロッパの文明の中でもケルト教などの自然崇拝はあってその精神が完全に絶えたとは言い難い。もちろんそれらは砂漠の宗教からの弾圧もあったかもしれないが、むしろ長い歴史の中での対立は我々と違う形での調和を見出している可能性がある。また我々の文明がそれほど自然崇拝的だったかどうかすら疑わしい。西洋と対峙しはじめた明治期の日本人がとりあえず作りだしたような図式にいつまでも囚われるのは危険ではないか。
  • 「道徳は社会の中でしか機能しないが、宗教は社会を越えたところにあって…」
    • アニマル・ライツ的な試みはどうなのか。また、この語り口は宗教と言うものが集団的な信仰である以上社会の影響を受け続けることを失念してしまわないか?
  • 「バーキアンとしての保守は人間を不完全なものとし、それに対し革新は…」
    • フランス革命のころ、あるいはぎりぎり冷戦期までは意味のあった図式かもしれないが、現代自らを保守と標榜しない人々は全て完全なものだと思っているのか?それはわざわざ保守を標榜しなければできないことなのか?

他にも例を挙げればキリがないが…