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議論のことを語る

まぁ基本的にあまりにナンセンスなものに多くの人々が靡くときというのは「アーアー聞こえーないー」ってクリスタル・キングの替え歌の大合唱だと考えるべきだとは思ってはいる。すべての問題に耳を塞がせることが現状追認主義者たちの基本戦術なのだから。
ただ、その様式はしばしばありがちな心の隙を突き、間違いを誘発させるものが結果的に選択される(さもなくば普及しない)ので、そのへんは興味をそそるものになる。
んで、その一つに自意識過剰パターンと言うものがあるように思うのだが、これは自分自身の自意識と言うよりも口を塞ぎたい誰かの自意識を勝手に読み取って、「これは自意識の為せる業なので無視しても良い」と主張するもの。(承前) にもその一種を書いたけど。勿論、相手の主張に無理があるかどうかと言うことを検証することを抜いてだ。
マイノリティの窮状の訴えや、あるいはそれによって気付かされた現状の社会のありかたの歪みに気付いて共感し、共に訴えようとすることを「マイノリティ憑依」とかって揶揄するようなパターンとかそういえばあったな。
で、このへんへの突っ込みとしては、「仮に最初の主張をした者に貴方が指摘したような自意識のあり様はあったかもしれない。しかし、それは最初の主張にあった問題よりその自意識の問題は大きなことなのか?」と言うことなんだが、ここから逆方向に考えてみるとこの種の詭弁を有効に思える感覚の背景にあまりに自意識に問題意識が集中しすぎているって背景もありそうだと思った。
んで、こういう語りをよく見ると言うのは自意識過剰な人が多いと言うことになるのかなと思うけれど、これって思春期とかに必ず通る道で、必ずしも脱却できるわけではないと言うことなのだろうか?まぁ必ず脱却できるものだとしても一定の年齢層には刺さるものにはなりそうだ。