「魏志」倭人伝に「その南に狗奴国あり」としているのを、九州説では熊本方面に比定するのが一般的。しかし、記紀の記述からは熊襲が敵として現れるのはもう少し後の時代のようにも思える。記紀ではより古いヤマト王権の対抗勢力として現れるのは出雲。後漢書が魏志の記述を踏まえつつ、東に狗奴国があると訂正しているのがあるいは正しいのだろうか。
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古代史妄想のことを語る
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【銅鐸】
桜井の纏向遺跡から銅鐸の破片がけっこう出てきてて、破片ってのがいまいち謎なんすが、熱して鈍器のようなものでがつーんがつーんとやったのではないか、っていう説があります。
その破片をどうしたのか、素人考えだと他のものに鋳造しなおすのが妥当のような気がするんすが、いまのところ纏向からはそれをしてた様子の遺構は出てなかったような。
なんかのおまじないとか、儀式的なもののときに、銅鐸をがっちゃこんがっちゃこんやったのかもなんすが、銅鐸の使いみちってのは、ちょっと謎っす。
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銅鐸ってどことなく縄文土器に似てるから、弥生時代になって縄文土器が売れなくなって食い詰めた職人が青銅器の技術を必死になって身に付けて考え出したんじゃないかという情景を想像すると面白い。
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こう読んでみると、神武東征はほとんど全体を兵法論的に読めるので、もしかすると上古には兵法の教育のために作られた語りものがあり、その遺存したものが記紀神話著述の過程で神武東征説話を構成するための材料として使われたのではないか、というおれの古代妄想。
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間者みたいなのが繰り返し出てくるのは、孫子の価値観では「間を使いこなすのはとてもえらい君主」だということになっていることと関係があるのではないか。つまりイハレビコ=神武天皇を持ち上げているわけだ。
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奈良盆地に入ってから、謀略的に敵を倒す話が特筆されているのは、孫子が「闘うより謀によったほうがマシだ」と言っているのと対応する。エウカシを殺すとき、その弟オトウカシが寝返っているのは、孫子のいう「反間」にあたる。
最後に天つ神系の仲間らしいニギハヤヒが出てくるのは、やはり間者で、現地の豪族トミビコの妹と結婚しているので、先に入り込んでいろいろと工作し、イハレビコの手引きをしたのではないかと思わせる。
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白肩の津ではナガスネビコの軍と戦い、イワレビコの兄イツセの命が矢を射られて死んでしまう。これは、孫子が「敵の城に正面から突っ込むのは下策だ」と言っているのと対応する。
一度敗走し別の経路から奈良盆地に入ろうとするとき、国つ神のニヘモツの子、ヰヒカ、イハオシワクの子等が出てくるのは、やはり郷間を傭ったということだろう。
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古事記の神武東征説話もただ読んでいると意義がわからないところが多いが、兵法論的に読んでみるとどうか。まずは動機。
イワレビコは「天下平定するのに良いところはどこか、東に行ってみよう」と言って出発する。これは孫子の言う「衢地」を押さえに行こうという意味にとれる。衢地は四方から道の集まるところ、交通の要衝で、他のものに取られると自分が従属する立場になりかねないという危機感を読み取れる。
次に速吸の門で国つ神のサヲネツヒコを味方に付けたというのは、現地の人を傭って間者として使う「郷間」を引き入れたということになる。
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邪馬台国あるいはヤマトというのも語義未詳というけど、これはヤマタ、つまり八方に道が分かれるその中心ということだそすると、諸国連合の首都にふさわしい。だとすると、この概念は孫子の言う衢地に相当する。孫子曰く、諸侯の地が四属し、先んじて到れば天下の衆を得られるものを衢地とすると。
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大野晋さんだけじゃないですか、そんなこと言ってるのは。
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漢字なんかももっと後に来たように伝えられているけど、上限は弥生時代の始めまでさかのぼれるのではないか。それは証拠がないとしょうがないけど、魏志倭人伝には魏の使いが倭国に来て檄をつくって諭したとある。檄というのは本来おふれなんかを伝えるために木の札に書きつけたものだから、その頃には倭国人の中に漢文読めるのがいたことになる。
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そして長江下流域といえば春秋の呉越の地で、孫子や范蠡という傑出した兵家の活躍した国柄だから、弥生文化の素と一緒に兵法論も持ち込まれたのではないか。だとすると、弥生時代の遺物には戦争の痕跡がかなり見られるというから、兵法論が継承されていく条件もある。そう考えるとわかることがあるような気がする。
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弥生文化をもたらした人達は長江地域から来たという。来た人数はそんなに多くはなかったらしいけど、社会や文化に対して大きな変化を与えた。彼らは水稲や稲作文化だけではなく、政治手法、賦税制度なども持ってきたと考えないと、この変化の説明には不足しそうだ。政治が一緒に来たとすれば、倭人が自らを太伯の後裔だと称したという史書の記述とも符合する。