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古代史妄想のことを語る

纏向でカエルの骨12匹分出土(26日毎日東京版)。いままで桃の実やベニバナがでてて、なんとなく祭祀関連なんだろうな、と想像できるけど、なぜカエルなんだろう。食用にしていたのを神様にも捧げる、ということなのだろうか。

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おそらく邪馬台国と合致するかもしれない時期の、彦根の遺跡で、鉄器工房と思しきものがあった、というのがあったけど、その鉄を果たしてどこから持ってきたのか。近江の砂鉄によるものなのか。考えいにくいけど、大陸から原料を持ってきて再度溶かして加工していたのか。
その鉄加工技術はどっから引っ張ってきたのだろうとか、興味が尽きない

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魏志東夷伝関係地図を示します。

・高句麗は「言語・諸事の多くは夫余と同じ」、沃沮は「言語は高句麗と大体同じ」、濊は「言語・法俗の大抵は高句麗と同じ」で、夫余・高句麗・沃沮・濊の四国では共通の言語が話され、彼らは貊人とも呼ばれていました。
・他の集団との関係が分からないのが挹婁・韓・倭の三つです。
・辰韓と弁韓には中国からの亡命者の子孫が居て、中国語の特殊方言がある程度行われていたと記されているだけで、韓人の本来の言語についてはよく分かりません。いくつもの小国名が記録されているのがわずかに残された資料です。
・倭人の言語もよくは分かりませんが、記録された人名・国名から奈良時代の日本語に何らかの形でつながるものと見て矛盾はないと考えられています。

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・〈魏志倭人伝〉に「南至投馬國,水行二十日」「南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月」という記述がある。

・大陸性の文明である古代中国では、地形について「水」といえばまずは川を指し、次に湖で、海は最後。ただ「水行」と書いた場合はまず川の移動を表していると考えられる。だから韓国を通過するところでは「循海岸水行」と、海の沿岸航路であることを明記した。

・…という考えが正しければ、ただ「水行」とだけ書いてある不弥国から先は、川を通ったのであって九州から出ていない可能性が高い。九州北部には遠賀川、那珂川・御笠川、筑後川・宝満川など…[全文を見る]

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古代の銅鏡についての考え。

  • 日本の古墳から出る鏡の量は異常に多い。
  • 多くの鏡は初めから化粧用などではなく副葬する目的で作られたらしい。
  • 副葬用品としての鏡は、本人が生前に集めたか、死後に贈られたか、いずれにしても伝世したかどうか。
  • 実用品や踏み返しの型にするものなどは二〜三百年といった時間で伝世したとみられる場合もあるが、一般化できない。
  • 鏡を副葬用品として見ると、破砕されたものは、持ち主が罪を得るなどして死んだ時に、通常とは逆の目的でそうされた場合が有るかもしれない。
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箸墓古墳の年代が250年頃に特定できるかのような報道がまかりとおっている。それこそ誇大妄想だろう。

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瀬戸内海を挟んで東西に中津という地名があるのか。大阪の中津は旧中津川に由来し陸の地名としては割と新しい、川の方はどのくらい古いんだろう、さらに岐阜県にも中津川が…。あることないこと妄想しちゃうな。

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三角縁神獣鏡は、もし舶載品だとしても、魏ではなくて晋が呉を併合した後で作ったもの、と考えた方が、江南風の鏡に魏の年号が入っている事の理解がしやすそうですね。

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纏向からそんなに遠く離れていない天理の柳本に黒塚古墳ってのがあるんすが

ここで90年代末に三角縁神獣鏡ってのが33枚でてきました

その状況を復元してあります。
魏志倭人伝の中で銅鏡を100枚下賜したって記述があって、もしかしてそれが三角縁神獣鏡なのではないかといわれてはいるんすが、そこまで断定できる状態ではありません。で、三角縁神獣鏡は奈良に限らず福岡や京都でもけっこう出ていて、頭が痛いのはおなじものが中国ではでてないところです。日本にしかない。日本で500枚くらい出てるんだけど日本でも鋳型や工房跡がまだ見つからない。
三角縁神獣鏡ってのはほんと謎っす。

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当然のこととして深く考えなかったけれども…
奈良県の「やまと」を示す確実な史料はどこまでさかのぼれるだろうか。
『魏志』には「邪馬臺國」とあって、『隋書』には「邪靡堆に都する」とあるが(靡は摩の誤り)、『宋書』には「やまと」に類する表記はない。中間が抜けているのだ。
六世紀になってから(継体から推古の頃?)『魏志』を読んで「やまと」を発見し、あらためて用いるようになったとしてもおかしくない…

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倭国の「乱」が卑弥呼を「共立」する前提ではあっても直接の原因ではないとすると、それは大陸の政治情勢と関係しているのではないか。

卑弥呼が死んだとみられる時期から10年ほど前では、公孫淵が燕王を自称する(237)、魏の司馬仲達が公孫氏を滅ぼす(238)など。
20年ほど前なら、公孫淵が公孫恭の位を奪う(228)、呉の孫権が皇帝を称する(229)、呉が夷州と亶州を捜索する(230)など。
30年ほど前なら、漢の献帝が曹丕に禅譲する(220)など。

関係を想像できる事件が結構ある。

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卑弥呼が「乱」の直後に「共立」されたのではないのではないか、ということについて。

魏志ではこの部分
「其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王曰卑弥呼」
「乃」の字は慣例的に「すなわち」と訓読するが、「即」と違い「前段あって直後に後段」という意味ではない。「前段を受けて後段」だが、時期には含みがあり、「やや間を置いて」という意味合いもあるようだ。

後漢書ではこの部分
「桓霊間倭国大乱更相攻伐歴年無主有一女子名曰卑弥呼(中略)是共立為王」
「歴年無主」の時期が「更相攻伐」の時期の後に続くと読んでよければ、「乱」から「共立」の間に時間がある。

「古代の王者平均10年説」と合わせて考えれば、卑弥呼が共立されたのは、その死の時期から30年遡るのは難しく、そう考える必要もない。

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しかるに。

所謂魏志倭人伝について書いた本などで、よく卑弥呼が190年ごろに王となり、247年ごろに死んだように簡単に書いているものがあるが、すると60年近くも在位したことになる。60年となると、人の寿命からいえば不可能ではないが、古代の王者の在位年数とするとありえないほど長い。

同時代では、魏は5代で45年である。古代の王者が60年在位したとすると簡単に信じられる数字ではない。卑弥呼の在位年数について明記した史料がないので実態は不明なのだが、この点について考えている文章はまだ読んだことがない。

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・西暦紀元以降の世界の王者の平均在位年数は15.79年、1〜4世紀で10.56年
・西暦紀元以降の中国の王者の平均在位年数は12.16年、1〜4世紀で10.05年
・西暦紀元以降の西洋の王者の平均在位年数は18.06年、1〜4世紀で9.04年
・用明から大正天皇までの平均在位年数は14.18年、5〜8世紀では10.88年
以上の数字は

isbn:4061156942
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より。
古代の王者の在位年数は平均して大体10年前後である。

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魏志の対海国という表記について、海は馬の誤写とする説明を見ることがある。しかし海の上古音はマにやや近いので、上古音で宛てられたとすれば誤写と見る必要はないことになる。対の上古音はツドに近い。一方、古事記では対馬は津島に作る。弥生時代末期には連濁でツジマのように発音したのかもしれない。

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呼の字の上古音は hag 、中古音は ho あるいは wo に近い音で、日本語の上古音には h 音がなかったのでコまたはヲに訳した。
狗の字は上古音が kug、中古音はコウに近く、呼とは離れている。
魏志ではヒコとみられる語に卑狗を宛てているので、卑弥呼を原音がヒミコで、末の音節がヒコと同じ音だったかどうか問題がある。
そこで卑弥呼の呼をホとし、弥呼で後世の人名や地名にもみられるミホであるとする説や、ヲとみて漢語の王の音を写したものとする説がある。

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そして遺跡から知られるところの弥生時代の鉄器の分布から見て、北九州の邪馬台国がいちはやく鉄器の組織的活用を始め、それによって出雲を中心とする青銅器文化圏がほころび、国譲りからヤマト王権の成立へとつながっていったのではないだろうか。銅鐸の埋納や破却はそれを示しているのではあるまいか、という古代妄想。

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出雲王権が実在したとすればそれはどんなものであったか。おそらく出雲は青銅器の製作と流通における要地であった。しかし出雲には農耕の適地は少ないので、各地に青銅器を供給することによって穀物を得ていた。その最大の供給地は奈良盆地にあったであろう。この流通網によって出雲と各地方の間で人の交流や信仰の共有が行われ、ゆるやかな水平的連合が形成されていたのではないだろうか。

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古事記と日本書紀には共通して二つの王権起源説が記されている。一つは天照大神が言依せしたという神授説で、もう一つが大国主から譲り受けたという禅譲説。しかし記紀の構成は全体としては神授説に傾いている。
禅譲説を説く国譲り神話は記紀の中で異質であり、神授説の立場から見れば邪魔でさえある。にもかかわらずこれが重要な位置を占めているのは、記紀編纂当時においてこれが動かしがたい史実に基づくものであると考えられていたことを示唆するのではあるまいか。
そしてその実年代は、畿内における古墳時代の始まりをヤマト王権の起源と見る場合、国譲りはその前段階であるのだから、三世紀の後半、おそらく260〜290年頃の範囲に限定できるのではないだろうか。