また、アジア映画絡み。
私はインターネット普及以前からアジアヲタクの何を言っても、
「アジア映画・音樂はこう楽しめ。」みたいな態度に腹を立てていた。
それを母親に話したら、
「そういうのはジョン・レノンを殺した人も同じなんじゃないの。」
と言われた。
呆れて物が言えない状態になった。
また、自分の得意な欧米の流行シーンを持ってくるのか・・。
かっこ悪い日本の流行があって、それに対する雲の上の欧米の流行シーンみたいな
考えでばかりものを考えるから、自分の得意な世界に強引に持って行って、
それでしかものを考えられないからすごく怒ってしまった…[全文を見る]
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ヒトコトのことを語る
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私の母親は、アジア映画が嫌いである。少し前に、話した、ムトゥや冬ソナをバカにした。
そして、こういうのにハマるのはあなたの世代で、ソウルオリンピックや中国の改革開放
などが、影響を与えているんじゃないのと言われた。
逆に母親は、スヌーピーとかディズニーとかスタンド・バイ・ミーみたいなアメリカ映画的な
記号が好きなのだ。oasisやbulr以降、洋畫や洋楽に失望している部分もある私としては、
「年寄り臭い」
と考えたこともしばしばだ。
でも、韓国やインドといった日本以外のアジアの映画やドラマは、「俺はアジアの映画しか見ない。」的な
宗教家が、ムトゥ以前、冬ソナ以前、もっとさかのぼってインターネットの普及以前から
存在して、彼らの論調が、幅を利かせるのが悲しい。
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どうも、親世代のアメリカの豊かさってのは、なぜだか受け付けない。
ある一定の世代は「アメリカの豊かさ」、「アメリカとは馬が合う」みたいなことを
言うけれども、私からしたら、「アジアは危険だから、こっちにしなさい。」と
無理やり押し付けられている感じがして嫌いだった。
昔はそういうふうに考えても許されたのかもしれないけれども、
なんだか、存在が大きいものを無理やり押し付けられている気持ちのほうが大きかった。
あ、「ムトゥ」や「冬ソナ」に対する自分の意見は日をおいて発言する。
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先日youtubeでごちうさの画面にマジカルエミの音楽を乗せるMAD動画を
発見したけれども、なんだか、マジカルエミの音楽がアイドルソングみたいだ。
劇中にもアイドルが出てくるわけでもないし、歌っている人もアニソン歌手らしい。
でも、マジカルエミが公開当時、アイドルとして売り出していた、薬師丸ひろ子氏
みたいな声だなと感じる。
マジカルエミ自体、リアルタイム世代なのだが、熱心なファンじゃないから
あまりピンとこなかった。
それでもミスマッチの妙を見せるmash upだと思うと楽しかった。
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自分が私淑した絵師様が、最近懐古趣味が強すぎて引いてしまう。
物事色々『△△はダメだが〇〇は良い』って考えなきゃだめなのかもしれない。
僕にとって、昔は良かったってその絵師様見たく思えない。
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よくメディアで、大阪vs東京みたいなのを煽るけれども、頼むから関東/東京の代表を
城東地方の人間を持ってこないでほしい。彼らと考えている事が他の東京や関東と違う
と思う。彼らの大好きな世界は他の土地にとっては例えば沖縄や富山と同じ感覚
で受け止めている人がいる。
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親に禁じられれば禁じられるほど、気になり、憎しみが増す男が
存在する。小学校時代のnという生物である。
親は「子供らしくない危険な男だ」と彼に憎惡を向けた。
そして、先生に寵愛を受け、専横を極めた。
私をいじめたに人間はその後たくさん出たけれども、後味の悪さでは
この男が一番だ。
未だにのうのうと巨大な存在として君臨している。
親は「あいつはなにもしていない。忘れなさい。」といって
手荒い手段で忘却に望ませようとするけれども、親に言われれば言われるほど、
憎しみの炎が燃える男だ。
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私が半藤一利氏が苦手なのは、城東地方の正しさを抱えているかもしれない。
なぜ、城東地方は「北の玄關口」という機能ばかり背負ことばかり考えるのだろうか。
みんながそれを許しておだてた歴史があったからかも。
「こいつ、勇者である俺を煽[おだ]てるのだけは得意なのな。」
とyoutubeなどのwebでゲームの実況をしている方が漏らしていたけれども
「煽[おだ]てるのだけは得意なのな。」
と気づいた期にわかるときだってあるのでは。
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私は原作者は大道寺知世にも出来杉英才にも
傷をつけることをしていると思った。
Happy Endの裏の犠牲があるならば、
なにか別な道があってもいいのではないか。
私も出来杉英才や木之本桜に対して厳しい表情を見せることが
しばしばあるからそう考えるのかな。
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今必要なのはテレビの影響を全て無くするインターネットサイトなのでは。
1950/70年代のテレビって映画を見ないテレビファンのためのテレビという企画展開が
たくさんあったと思う。
いまpixivとかに足を運んで思うけれども、ヲタクが「異論を認めない」という世界で
極端な意見を述べているのをやたら聞く。苦しい。
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私は木之本桜が好きになれなかった。
というか、企画建ての仕様だと思っていた。
私は李小狼が好きだった。
私は大道寺知世が好きだった。
「木之本桜を侮辱するのはだめだ。異論を認めない。」
みたいな空気は怖かった。
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わたしは異論を認めないという世界があまり好きでない。
元々共産党に共鳴していたが、異論を認めない空気・空間に嫌氣がさして、
逃げることをした。
でも、他でも異論を認めない空気・空間は右保守にもいるし、
鉄道ヲタクにも一般人にも存在する。
そうして、自分の信念に基づいて自分のライフスタイルに合わない人を罵つてる。
私は鉄道には興味があるけれども、もし岡山に赴くとしたら、飛行機を
使うときだってある。
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ぶっちゃけ、「怒られそうなことを敢えて言う」の世界になるかもしれないけれども
漫画や小説で
「銀座=絶對惡」
「下町=絶對善」
って正しいのだろうか。
根っからの惡黨よりもいい人の黒い自分みたいな世界という言葉を聞くと
それを信じたくなくなる。
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我が家では、嫁姑ドラマは一種のタブーだ。
嫌われるジャンルかもしれないけれども、無理やり母親が強引に
理念的な現代主義の押しつけのためにタブーにしている感じがして、
嫁姑ドラマより怖いときがある。
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所謂る「新しい地図」の3人を見ていて、母親は嫌みを言うことが多い。
魅力が無くなったみたいな内容の事を言う。
確かにそうだが、私が母親の言葉に対して考えるのは、
「消えたアイドル」
という単語である。
アイドルグループが解散に追い込まれたとき、グループが存続していて、人気があった時代
から比べると、解散したら音沙汰のない男女がいるけれども、その世界に無理に存在するより
消えてしまったほうがいい人もいるのではと昨今感じる。
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みんなある面で天皇制に対して、部落に対して言う人がいるけれども、
関東において、その上記2つ以外に言ってはいけない
タブーなものがある。
私はしばしば、それを考えると悔しくなる。
これでもってものを考えるのは正義だと考えられている。
天皇制や部落が仮に解決しても、私が気になってしまうタブーは後々まで残りそうだ。
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母親は活字を読んでいる行動が偉いと思っているのではと感じる。
僕は漫画やアニメ・特撮なき世界のもう一つの漫画やアニメ・特撮
だと思いながら、活字を読んでいる。それでいいと思う。
母親は漫画に偏見があるという言葉を使って、
活字を読んでいる行動が偉いって遠回りに言っている。
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頼むからやめてほしいのは、アジア、特に華人圏系統の音楽芸能で、
アジア全域で大人気、とか汎アジアという言葉を多用すること。
どちらかといえば、欧米と日本と言う比較論で物事を考え解決してきた
日本人に動揺を与える言葉だと思っている。
私も香港・韓国よりアメリカを最初に意識した。やはり親の影響だろうね。
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私は母親に怒られて、頭に全然入っていない。
「私の怒つた言葉が身についていないからまた繰り返すんだ。」
といつも言う。
母親の頭の中には
「男の子だから、怒って脅せば大丈夫だ。」
という考えが染み付いている部分がある。
私は母親に怒られている期、自分が不正をして怒られているのは理屈ではわかるんだけれども、
心の部分で、「母親に厳しい言葉や怖い言葉で脅された」という気持ちだけが強くなっていく。
なぜだか、母親に叱られた期、怒られたときの言葉がずっと頭に残ってしまう。
母親は叱っているつもりでも、自分にとっては、追い詰められたという気持ちだけが強い。
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臺灣偶像劇だけれども、韓流の對抗策として、擁立されたときから
なんだかヨイショがヨイショになっていないようにも思った。
ムトゥが日本に紹介されたときも、
韓流・冬ソナが日本に紹介されたときも、
「うまいヨイショ」
があったと自分なりに思うけれども、
台湾ドラマ・臺灣偶像劇は紹介されたときから、
「これって大丈夫かな」
みたいな感じが、ヨイショマスコミの資料から流れていた。
少女漫画ドラマが氾濫するラインナップは少女漫画原作のドラマやアニメが
多数存在する日本からすればまあ、致し方ないって考えたけれども、
その一方で、韓国以上の企画の一元性も感じていた。
私が韓流が政治問題絡みでやばいと思って心が離れた部分がある一方で、
臺灣にそこまでこだわるのは、彼らを信じていたかったからだと思う。
諦めの気持ちや他の映画や音楽に興味関心があってそれしか見たくないと思うならば、
臺灣偶像劇にはこだわらないと思う。