あの、「統計的異常」に対して理不尽を行ったり、ある種の人々を「統計的異常」と判断すれば、判断された先の人たちがそれをどう思おうが「差別」だと思うんですが。
なんか基本的な用語の認識に大きな違い、と言うか間違いがありそうですね。
お話しするにはログインしてください。
ガールしりとり議論版のことを語る
ガールしりとり議論版のことを語る
例えば、黒人差別者でない人が、ある事例を黒人差別であるかどうか判断できないか、と言えばそうではありませんよね。
で、あれば「ありとあらゆる方面において」差別意識のない人が差別を認識できないか、と言うと、そうでもありません。
どうも「感受・感じ取ること」と「理解・判別」の区別が出来ていないように感じます。
ガールしりとり議論版のことを語る
まぁ嗜好の影響を受けてる時点でそれは「感受」なんですよ、「理解」じゃない。
ガールしりとり議論版のことを語る
受けないケースもあることをお忘れでは。
ガールしりとり議論版のことを語る
「嗜好はなくても理解はできる」と言う事を、あなたは否定できてないからです。
ガールしりとり議論版のことを語る
内面を問題にしていてもこれは覆りますよね。
そして「認識」と「理解」は違うと思いますが、これはまぁ「言葉遊び」の領域です。気にした私が悪かった。
ガールしりとり議論版のことを語る
それはあなたの仰ってたこととは趣旨が違うと思います。
>その表現を見て「蔑視だ」「差別だ」と感じたのは,
>感じた側にも「蔑視意識」「差別意識」があるから,ではありませんか?
それと>個人の「嗜好」や「価値観」に依存している 部分は厳密には「理解」ではありません。感覚の部類です。人間はどちらももってますのでごっちゃになりがちですけど。
ガールしりとり議論版のことを語る
本題とはずれて行く感じもしますが、好きと嫌いの前に「事実」があり、個人がその事実をどのように受信するか、と言う問題だと思います。
そもそもこのキーワードも、「各個人がそれをどう受信・認識するか」以前の、「その事実(表現)が差別かどうか」について語ってると思いました。
まぁ論点をキーワードに沿った内容に絞ると、「差別の価値構造が無くても,差別には気付ける」と思います。
その近しい例としてアートに対する嗜好と理解の違いを上げました。嗜好はなくても理解はできるのです、同様に。
ガールしりとり議論版のことを語る
混同していません。
でも比較して同様のものとして分析することは可能です。
ガールしりとり議論版のことを語る
いや、それはそうでもないでしょう。
例えばある演劇や音楽などで、自分の趣味ではまったくないのだが「これはいいものだな」「これは売れるな」と分かるものがある。ぎゃくに自分が好きで堪らないが「これは下らんな」と分かるものがある。
要するに「感性にヒットしなくても頭脳で理解はできる」と言う事です。
差別の存在は差別意識がなくても感じ取れる。
/ガールしりとり議論版