ちょっと前の話題ですが X.com から。
「なぜブラックジャックは医者が“いる”という代わりに“ある”を使っているのか?」という投稿をされたこの方はインドネシアの出身らしい。「いる」=人や有生物の存在、「ある」=無生物の存在、というように教わったものと推察します。
結論から言うと、このような使い分けが確立されたのはそう古いことではなく、昭和後期の大人はまだ「人がある」のような言い方をふつうに使うことがあったので、ブラックジャックの台詞は「何のために医者という人が存在するのか」という意味に取って差し支えないと思われま…[全文を見る]
学校文法はなぜ「時代遅れ」になったのか|こだかな
見出し画像はおふざけです。内容はクソ真面目です。
助詞の分類はそれでいいのか−−「より良く書く」ための文法論という立場から|こだかな
ちょっと大胆かもしれないが助詞の分類について、学校文法とは根本的に違う方法を提案します。
「オレがクマを食べる」の「〜が」は何の助詞だと言えるのか?|こだかな
オレがクマを食べるんだよ。あんたはクマを食べないか? 的なちょっとした議論である。ヘッダー画像も一筆入魂。
江戸時代に日本語の”進化論”を考えた学者が居た〜鈴木朖の《言語四種論》|こだかな
尾張名古屋の偉い人、鈴木朖がテニヲハを軸に日本語の構造を論じたことについて、解説します。
鈴木朖《言語四種論》全文|こだかな
まずは近世の言語学の書、その全文から。次回はこれについて多少のことを論述します。
日本語の動詞はなぜ文末に向かうのかという話しです。次回は鈴木朖の品詞論について書きたい。
動詞の性質が語順に関与すること|こだかな
「主語」という観念とどうつきあうのか、文法の原理と現象を区別しようという提案です。
日本語に「主語」はあるのかないのか?|こだかな
ここ数年あたたたためてきた住所の書き順に語順の原理があるという考えを説いていきたいと思います。
住所の文法と語順の原理|こだかな
文法論はじめました。まずは導入。体系的な日本語文法をめざして。
文と語順のこと|こだかな
ここ数日、日本語の文法論について考えていたのである。人は眠っている間でも考えることができるもので、目がさめるととっちらかっていた考えがまとまっていることがある。これができると、ものを考えるために睡眠時間を減らさなくてすむのでよい。さて。
わたしもこの数年で言語学をちょっとはかじったので、文法についても学者の書いたものを読めば理屈はわかったつもりになる。されどわたしが欲しているのは、「こうなっている」というような観察的な文法論ではなくて、実際に文を書こうとするときに役立つような実用的な、「よりよく書く」ための文法論なのであった。…[全文を見る]
ウェブ検索していてたまたま面白そうな論文が公開されているのを見付けた。著者は王丹丹博士(比較社会文化)。
日本と中国の若者の言語使用に見られる対人関係上の志向性 : 「卑語」、「ぼかし表現」、「アクセサリー化した方言」の使用実態を中心に - 九大コレクション | 九州大学附属図書館
分量があるのでまだ冒頭しか読んでいないけど、「論文要旨」の部分から引用するとこの辺に興味を感じた。
また、婉曲表現とされる「ぼかし表現」は、若者においては集団であることを強調する機能をもつことが分かった。このような親しい若者同士の間の「ぼかし表現」の使用は、従来言われてきた「摩擦の回避」より、「親密さを出す」という解釈のほうが妥当であると考えられる。
ぼちぼち読んでいきたい。
い、が/の、は。それと「私は」と「私が」
日本語の主格の標示とセブンとローソンについてのあれこれです。
い
昔々、ある所に〈い〉という助詞がありました。
主語の格助詞としての働きがあることを認めたり、なかったり、副助詞としたり、辞書によって扱いが違うことがあったり、間投助詞としての条を立てたりもされる。他の助詞と連続して「いは」とか「いし」のような形でも使われた。分類はともかく、いくつかの働き方の一つに、少なくとも主語を「支える」性質も持っていたと見ておきます。
裸の母音が文節末に付くので、吸収乃至脱落が起きやすい。意識として…[全文を見る]
(承前)第三回です。以下のことは「こうである」というのではなく、「こう考えたらどうか」という提案として存ります。
住所と文法
いつだったか、「住所は文なのだ」という思い付きを得て、それから日本語の語順に対する考えが、どうにかまとまるようになった気がします。
住所や氏名の並びは、日本語と英語を比べると、互いにひっくり返っているので、文法と関わっているように見えます。もっとも英語の語順は「整合的でない」というのですが(他の多くの欧州言語も)、住所氏名に関しては SVO 型の基本に一致していると見ておくことにします。日本語は「整合的」なの…[全文を見る]
(承前)続きです。日本語の語順の文法的な、理屈にとどまるのではなく、作文に役立つような理解の仕方について考えています。「私は本を読む」のような模式的な短い文で済むことは実際には少ないので、もっと実際的な長い文での言葉の出し方をどう決めたら良いかということでもあります。
読み書きのために
繰り返しになりますけど、ここでの主題は、日本語の語順に対する理解を、読み書きの訓練につなげることにあります。
私は国語の授業でする作文というのが大嫌いで、書くことは苦手な方でした。1999年に出た大野晋の『日本語練習帳』は、自分にはあまり役に立たなか…[全文を見る]
日本語教育における日本語文法と、日本の義務教育で学習する学校文法はちょっと違います。学校文法は王朝文法が基本になっていること、学習者の発達段階に応じた設計になっていることなどから、必ずしも言語学的には厳密でないところがあります。日本で義務教育を受けた方で、「なんか日本語がよくわからなくなってきた」というタイミングがきたら、そのときは日本語文法の学習がおすすめです。
学校文法では「主語ー述語」の順になること(述語が先にくるのは倒置)、「修飾語ー被修飾語」の語順になること、被修飾語が体言ならば連体…[全文を見る]
日本語の語順入れ替え可能のことについて意識したのは、韓国語の基礎の基礎をかじりかけた時です。
NHKのハングル講座でも、近所の大学の社会人向け講座の授業(韓国語の授業ではなく、韓国の文化や生活を紹介する授業だったけど)でも、英語では語順が変わると意味が取れなくなるが、日本語は助詞があるせいで語順を入れ替えても意味がわかる。韓国語にも同じように助詞に当たるものがあるので、語順を変えても意味が理解できる、というのを聞いて「そうなのか!」と思いました。
しかし、そう思ったところで学習が止まってしまっているので、それ以上のことはわからないのが問題(^^;;
日本語の語順についての論考を拝見しながら、今日はそういう事を考えて良い日なんだなと思いました。長くなりますがお付き合いください。
(例文を「は」から「が」に変えたのには理由がありますが、それは長くなりますのでお許しを)
確かに日本語では、この2つの書き方があります。文章をどのように組み立てるかに応じて、これらは使い分けられます。このことを事実として受け入れて頂いて、わたしからは、それができるのはなぜかという話をドイツ語と英語の事例を使ってお話させていただければ、と思います。
実はドイツ語と日本語は…[全文を見る]
日本語の語順について考える
日本語の語順の問題についてちょっと考えてみましょうか。ここでの関心は、語順についての、文章の訓練に役立つ理解の仕方、ということです。
文章を書こうとすると、言葉の並び方が何通りも考えられる場合があって、どうすれば「言いたいこと」に対して最も伝わる表現になるのか悩みます。決めるための基準を持つには、日本語の語順が持つ文法的働きを理解する必要がありそうなのです。
語順の不思議
学校では、英語は日本語とは「語順が違う」と教えられた憶えがあります。「私は本を読む」に対して「I read a book」だから「語順が違う…[全文を見る]