id:lieutar
自分(id:lieutar)のことを語る

(承前)
そういえば、素朴すぎる公共観の中で建前というものがどのように見えるのかっていうと、あえて本音を語らないという"隠蔽"よりも、公共を前提として語ることに「格好をつける」という"嘘"として見えるんだよなと。
で、「おなじ格好をつけるのならば、隠しながら嘘の格好つけをするよりは、明け透けに振る舞う方が余程潔くかっこいい」と格好つけマウンティングの形で建前絶対許さないマン化してしまうんだな。
んー、だから公共観が素朴というよりは「意識のなかに公共が存在しない」と言う方がより適切で、まぁでも理性が無いわけではないからたびたびその萌芽が生まれては育たずに消えているような状態って考えるべきなんだろうなと。

んで、白い巨塔に戻れば叩き上げの財前が建前を軽蔑…すなわち公共観を育てることができず、裕福な時間が長かった東が建前で語る…すなわち二重思考することが出来、建前の中にぶれない里見がジリ貧になってきているあたりに山崎豊子のシニカルな社会観があるのかなとか、いや別に山崎豊子がシニシストだってんのじゃなくて社会がシニカル。
んで、このへんのシニカルな描写にリアリティを感じるわけだけど、そういう回路がどこかで現状追認主義に繋がったりしないか、単なる楽観主義ではなく克服する描写ってのがありえないのかなとかぼんやり考える。