蓋然性は高くありません。
元の文に戻ると「差別する自由ってものがある」と唱える人に向かって、「その自由に価値はない」と言う事によって新たな理不尽が生まれる蓋然性です。低いです。
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差別する自由のことを語る
差別する自由のことを語る
それが起こらない「安全性」が100%でなくても構わない事例を出しているのに、
それが起こる「危険性」を見たら99%を割り込むのは当たり前じゃないですか。
「危険性」を減らして「安全性」を増やす、と言う視点に立てば最後の一文は同じ事でしょう。
まあそれはともかく、例えばこの議論において、「rcfさんが完全に間違っていて、普通に理解すればいいものを私がレスしなければならなくなった」と言う「根拠無き不利益」を与える危険性は0%ではありませんが、rcfさんはこうしてレスをしてきた。
そうです。「安全性は」100%でなくても構わない、とご自分の行動でrcfさん自ら仰っている。
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考えるに「区別」と「差別」の間に線引きはない。
やってる方は「区別」のつもり。
「区別」の中で、その差異に基づくことが理不尽な差異に基づいていたり、代替ルートの用意されていない「区別」を「差別」と呼ぶのではないか。
例えば、「横断歩道を歩いて渡るのに10分かかる人達がいる」とする(実際いる)、「その人達のために信号機は切り替わるのに10分掛けるべき」か。
考えるまでもなくそれは難しい。
この「区別」は車椅子を押す介護者とか、電動カーとか、むしろ車道を行けるようにするタクシーとかの「代替ルート」の存在によって「差別」となることを免れている…[全文を見る]
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その意味で
>残り1%の不正確さによって、
根拠無き差別、利害を間違えた差別(あるいは、差別の解消)が
発生することになりますから。
と言う表現は不正確でしょう。「発生しない可能性」がありますから。
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いえ、十分です。完璧ではありませんが十分です。
例えば、あなたが道を歩いていて右から悲鳴が聞こえて視線を向けるとしましょう。
あなたはその時、常に歩みを止めますか?止めなければ視界から外れた左から来る人とぶつかる確率が上がるし、足下の蟻を踏みつぶす確率も上がる。
止めますか?では後ろから歩いてきた人があなたにぶつかる可能性がある。
100%を求めるとはそういうことで、それは「不可能です」、それは「何もできない」と言うに等しい。みんな「数十%」で行動してるのです、私も、あなたも。
そして今回の議題に関して言えば、一点重要な条件を見逃してい…[全文を見る]
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>その「判断」を「正確」と判断することは
いや、そりゃできます。勿論100%には不可能ですが、80%程なら良く見て聞いて感じて考えれば。
私たちは100%の確証が無ければ何もしないでしょうか。
「判断できるのか」それを他人に問うのは意味のないことです。私達は「正確とは判断できない判断」を元に行動し論述することを日常既にやっているからです。そして一生続けるしかないのです。
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>俺の家に誰を入れるかは俺の自由だろ、
自由だと思いますよー。実際、自由ですからね。たとえば[誰を泊めるか]なんてホテルの自由ですからね。
けど、これ、やられるときついっすよー。カップルでも異性二人はオッケイで同性二人だとラブホテルに入れないことがおおいっすよ。ここらへん、頭で考えずに、実際、同性二人でどうなるか、トライしてみてください。お願いします。うまくいったら、場所教えて欲しいくらい。
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実際の社会や法に於いては、ですね。
世の中は何だかんだ言ってまともな人・まともな価値観の方が多く存在してるので、
それに対して逐一「その自由は何かを産みますか?」「その自由は価値あるものを阻害しませんか?」
とチェックしても「産みますね」「阻害しませんね」となることが多数です。
なら当然「まず自由があって、それが他人の自由や幸福を阻害するときに、自由が制限される」方が効率が良い。
実際、社会や法はそのように出来ています。
しかし、事、こう言った「議論」にフィールドが移ったときは、「何を産むか何を阻害しないか」と言う「結果や可能性か…[全文を見る]
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基本的に「自由」と言うものには1mgの価値もない。
「自由」とはあくまでツールであって、そのツールを使ってどれだけ「価値のあるものを生み出せるか」「価値を阻害するものを減らせるか」それだけで判断すれば良い。
包丁を使って「料理を作る」のか「人を刺す」のか、その行為こそが判定基準であるように。
道具なら「デザイン・機能美」と言うものがあるが、形のない「自由」そのものに価値はない。
だから「誰かの自由を阻害する罪」とは「その誰かがその自由を使って価値あるものを生み出すのを阻害する罪」であって、「生み出さない(あるいは害悪なものを生み出す)自由を阻害」したところで些かも責任を感じる必要もない。
「価値」に対する判断が正確である限り。