オルセーは、もともと1900年のパリ万博のために
つくられた駅だった。
建築家ラルーは、フランスのモニュメント的建築である
ルーヴルとの対比に悩み、その結果 オルセー駅を、
エッフェル塔をしのぐ数の鉄骨を使いながらも その鉄骨を隠して
外観を石造りにし、新しい駅舎をパリに溶け込ませた。
駅だった当時のオルセーには 付属のホテルもあり、
370もの客室があったという。
しかし、30年ほどで、オルセーは 駅としての役目を終えた。
廃墟となった駅舎だったが(戦時中には避難場所等にも使われた)、
のちに 歴史的建造物として認められ、美術館として生まれ変わった。
オルセー美術館が 美術館として誕生したのは、1986年である。
もともとは 駅舎だった。
近現代の作品を所蔵しているオルセー。
印象派の作品の所蔵数は世界一である。
最近では、『洗礼者ヨハネ』 のモデルといわれる
レオナルド最愛の弟子サライが、実は 『モナ・リザ』 のモデル
でもあるのではないか、とみている専門家もいるという。
(イタリア人のジョコンダ夫人がモデルである、というのが定説だが。)
さらに、細かく解析すると 『モナ・リザ』 の瞳の中に
LとSではないかと思われる文字らしきものがかたどられており、
それがレオナルドとサライを表すのではないか、ということで
調べている専門家もいるという。
“単なる肖像画” と思われていた 『モナ・リザ』 が
見直されたのは、皮肉にも、盗難に遭ったことが原因だという。
シュルレアリスムの詩人アポリネールが疑われた
(かつてルーヴルで起こった盗難事件の犯人と知り合いだったせいで
疑われたという)この 『モナ・リザ』 盗難、
真犯人は ルーヴルに出入りしていたガラス職人だったというが、
盗難をきっかけに注目された 『モナ・リザ』 が
ルーヴルに戻ると、とたんに専門家の研究対象となり、
その研究の結果から、比類なき絵画であると 位置づけられたという。
ルーヴルが美術館になったのは、ナポレオンの時代である。
1810年、所蔵品のリストが作られたが、
その中に 『モナ・リザ』 に関する記述もあるという。
モデルとなった女性の名、そして 王が4,000エキュで買い取った、ということ。
その金は、レオナルド最愛の弟子サライ(『洗礼者ヨハネ』 の
モデルといわれる)が受け取ったのではないかという。
師が没し、イタリアに帰ることになった彼の、
帰国費用ほどの金額だった、という。
当時は 聖書の物語を描いた絵画のほうが重要視され、
“単なる肖像画” と捉えられた 『モナ・リザ』 は、
さして重要であるとは 思われなかったのである。
フランソワ1世の建てた城にはルネサンス様式のものがあり、
それは レオナルドの助言があってのことではないかという。
イタリア美術、ルネサンス様式に傾倒していた王は、
フランスを ルネサンスの息吹をたたえた国にしたかった、
そのためにレオナルドの助言を必要としたが、
渡仏後3年でレオナルドが没したことにより、実現しなかったのではないか―
というのである。
フランソワ1世が建てたフォンテーヌブロー宮殿に、
『モナ・リザ』 があったという、先週の話の続き。
フランソワ1世が、イタリア・ミラノに攻め入った時、
レオナルドと出会ったという。
イタリア美術に心酔していたフランソワ1世が、レオナルドを
フランスに招いたという。
しかし、フランスに来てから、レオナルドが絵を描いた記録はない。
レオナルドは フランスに来た時、自分の作品3枚、
『洗礼者ヨハネ』(レオナルドが最後に描いたと言われる作品)、
『聖アンナと聖母子』、そして 『モナ・リザ』 を携えていたという。
『モナ・リザ』 を、王が フォンテーヌブロー宮殿の
浴室で鑑賞していたらしい記録が残っているというが、
フランスに来て3年で没したレオナルドが 終生手放さなかった
この絵が、どういう経緯で王の手元に、ひいてはフランスに残ったのか。
今回は90分スペシャルです。
先週から引き続いて、フランスの美の殿堂、
ルーヴル美術館とオルセー美術館特集です。
続きは 来週の90分スペシャルにて、とのことです。
ルーヴル美術館の続きと、さらにはオルセー美術館も。
ミラノを訪れた際に レオナルドと出会ったフランソワ1世が、
レオナルドをフランスに招いた。
レオナルドが終世手放すことのなかった 『モナ・リザ』 も、
その時、ともにフランスへ渡ったのである。
レオナルド滞在中に、王が レオナルドに絵を依頼した記録はないという。
もっと別の目的があったという。
ルネサンス様式の建物、もともとは王の宮殿だったルーヴル。
1985年、ミッテラン大統領(当時)の推し進めた
計画によって建てられ、新しく象徴となったガラスのピラミッド。
その地下には、12世紀の城塞が残っているという。
宮殿になるよりもっと前、ルーヴルのあった場所は 城塞だった。
ルーヴル宮建設を考えたのは フランソワ1世である。
1546年、宮殿建設が着工されるが、完成を見ぬままに没した。
フランソワ1世は 28歳の時にフォンテーヌブロー宮殿も建てている。
フォンテーヌブロー宮殿は、現在もフランソワ1世時代のままだという。
そして、そのフランソワ1世の時代、フォンテーヌブロー宮殿の
フランソワ1世の部屋に、『モナ・リザ』 が飾られていたという。
今回は、パリの 美の殿堂を巡るスペシャルです。
ルーヴル美術館とオルセー美術館。
スペシャルの回の恒例ともいえる、ナレーションの小林薫さん@現場。
伝統と歴史を誇るルーヴル、そして近現代の名品を収めたオルセーへ。
昨年から、京都(終了)、宮城(終了)、東京(展覧会開催中)で展示された。
昨年の京都展の際の写真。
今週は、ヨハネス・フェルメール(1632-1675)です。
今日の一枚は、『手紙を読む青衣の女』(1663-64頃)です。
アムステルダム国立美術館所蔵。
2010年12月から始まった修復。
修復完了後の世界初公開は、日本での展覧会だった。
今週は円山応挙です。
今日の作品は、『保津川図屏風』(1795年)。
亡くなる1ヶ月前に描き上げた絶筆。
来週、ミケランジェロ・ブオナローティ特集の後編、『最後の審判』 です。
こういう番組見ると、大きなテレビにしてよかったなぁとしみじみ思う。
[システィーナ礼拝堂天井画]
天井近い位置に足場を組んで、天井を見上げながら
描かれたものらしい。
見上げながら などと、そんなつらい姿勢で描いていながら
あの傑作が出来上がるとは……
しかも、それまでミケランジェロ本人にとっては
馴染みのなかったフレスコ画の手法を、すぐに習得して
描き上げたのだという。
それでも、父に送った手紙には、仕事の量があまりにも
膨大すぎて途方に暮れている、なにしろ これは私の技法ではない、
“私は画家ではない”、と書いているのだという。
ミケランジェロ本人にとっては、やはり、
自分は彫刻家である、という意識、自負が強かったんだろうなぁ…。
2週連続でのミケランジェロ特集、今週は前編です。
作品は、ミケランジェロ・ブオナローティによる、システィーナ礼拝堂天井画(1512年)。
この天井画を評して、ゲーテはこう言ったという。
“ひとりの人間がなしうる限界を見てみたければ、この礼拝堂へ来るがいい” と。
『四季』 と同じく、自然の事物を組み合わせ、
人の形をかたどることによって肖像画として表現した連作を、
ほかにも描いているアルチンボルド。
燃える炎を組み合わせた「火」、海洋生物を組み合わせた「水」、
空を舞う鳥を組み合わせた「大気」、動物たちを組み合わせた「大地」
による、『四大元素』 の連作もある。
そして、『四季』 と 『四大元素』、それぞれ4枚ずつの
この 連作2組は、すべて、"対話" を表す横向きの肖像画として
描かれているが、四季と四大元素の性質を同じくするもの同士が、
向かい合うように描かれているという。
暖かく湿った大気↔春、熱く燃え盛る火↔夏、
豊穣の大地↔秋、冷たい水↔冬、といった具合に向かい合うという。
それら 巡り続ける四季と、自然を構成する四大元素を
組み合わせることによって、ハプスブルク家の権力と隆盛、
及びそれらが永遠に続くように、との寓意が込められている。