ひさしぶりの出社。ずっと在宅勤務だった。
「表現の不自由」展関連で国があいちトリエンナーレに補助金を全額を交付しないことを決めた。これは本当に将来、決定的な影響を残す事件だ。これが是とされるなら、多くのアーティストやキュレーターが補助金不交付をおそれて、最大の政治勢力に迎合した作品制作や展示ばかりをますます行うことになるだろう。これからは、芸術作品を通じて、もしくはそれをきっかけに、異なる考えを持つ他者と、時間や場所を超えて対話するための場所を提供するという美術館の役割のひとつはもはや果たされない。美術館は販路か美のプロパガン…[全文を見る]
もう1つ気付かされたことは、私がどれほど儀式を嫌っているかということだった。なぜとくに感染症にかかりやすい状態で生まれた子を生後1カ月でお宮参りに連れて行かなければならないのか、またなぜ妻の実家は私の子のために武者の兜を贈ってくるのか、全く理解できなかった。それでも儀式は自分のためではなく周囲のために実施または参加するものだと自分に言い聞かせて、どちらでもよいと言っている私の両親にお宮参りへの参加を依頼した。とはいえやはりどうしても私は近年の政治勢力としての神社本庁に全く組みしたくないので、妻の両親を説得して神社ではなく寺へ行く…[全文を見る]
2月に子が生まれてたくさんのことに気付かされた。
1つは、過去の経験に基づいて未来を期待または心配する能力は、とても早い段階で現れる場合があること。私の子は一度おしっこのせいで体が冷えてしゃっくりが止まらなくなった。すると次からはほんの少しおしっこをしただけですぐに泣き出すようになった。そして私がおむつを取り替えるために声をかけながら近づいただけで、まだ取り替えていないのにもう泣き止んでしまうのだった。今ここにある問題そのものによって泣いているというよりはむしろ、現在に類似した過去の経験から未来の事態を予期して泣いているように見える。こうした、今ここにない未来に対する今ここにない過去の投影はある程度発達した知能の働きによるものだろうと私は考えていたが、実際にはこれは生後2週間以内に現れたので、もっと生理的なものなのかもしれない。
キリスト者でない私がごくわずかな知識から想像する限りでは、中絶というテーマはカトリックにとって最大の難問のひとつに触れるだろう。カトリックが中絶を禁忌としていることは信者でない私たちのあいだでは驚きや怒りをもってよく語られるが、しかし当の信者は信心深いほどそれを語ることに慎重になるのではないか。実際、とあるイタリアのメディアにおける読者から神父への相談コーナーで、女性が望まない性交によって妊娠した場合にも中絶は肯定されないのかと読者が問うたとき、神父は答えることをぎりぎりまで引き延ばしているようだった。
なぜか。神父がその理由を…[全文を見る]