ゴッホの持つ ”画家のユートピア” 構想に、
ゴーギャンは 心底共感して共同生活を始めた訳ではなく、
ゴッホの弟テオからの資金援助が 目当てだったとも言われているという。
しかし、実際にゴッホの絵を見て、ゴーギャンは その才能に驚いた。
『ひまわり』 を見たゴーギャンは つぶやいたという。
「これこそ花だ」 と。
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美の巨人たちのことを語る
美の巨人たちのことを語る
今週は、ゴッホとゴーギャンです。
今日の一枚は、『ひまわり』 を描くために絵筆を持つゴッホを、
ゴーギャンが描いた 『ひまわりを描くゴッホ』(1888) です。
イギリスの新聞が最近になって報じた新説。
ふたりの共同生活が幕を閉じるきっかけとなった
ゴッホの 「耳切り事件」 は、これまでの説のように
ゴッホ自らの行為ではなく、ゴーギャンが、
発作の時に襲いかかってきたゴッホを、持っていたサーベルで
返り討ちにした、というのである。
もちろん、そうと確定した訳ではない。
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ちょ、視聴者プレゼントがキリンの新しい発泡酒w
美の巨人たち、まさかのスポンサーCM回
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日本画の定義とは何か?と
ラーメンの発祥はどこか?
を絡めるのがおもしろい
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マン・レイは、その 写真の芸術性を 高く評価され、
作品が高値で取引されるようになった頃、
”写真は芸術ではない
私は写真家ではない”
と、 複雑な胸のうちを吐露した。
キキとの関係もギクシャクしてゆく。 出会って5年経った頃。
その、別れの頃に 撮られたのが、この 『黒と白』 だった。
名だたる画家たちのモデルをつとめてきたキキと 出会った時、
”あなたを フジタの絵より美しく撮ることができる”
と 言ったというマン・レイ。
その写真はたしかに、記録ではなく 芸術だった。
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マン・レイの本名は、エマヌエル・ラドニツキー。
マン・レイとは、本名のスペルを縮めたものでもあった。
ユダヤ系ロシア移民の両親のもと、アメリカで生まれた。
マルセル・デュシャンに出会ってダダイズムに傾倒、
しかし画家としてはまったく認められず、せめて作品の記録を、と
手に取ったのがカメラだった。 当時は カメラを扱える人自体が 少なく、
カメラマンは、芸術家とは見なされず、技術職と思われていた。
その後パリに渡ったマン・レイ。 画家として認められることのなかった
アメリカ時代のことは、語りたがらなかった。
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エコール・ド・パリの芸術家らの間で モデルとして活躍したキキを
写した 『黒と白』(1926)。 マン・レイが写真家として認められるきっかけとなった一枚。
目を閉じて、机の上に その顔を横たえるキキ。 そして 傍らには、
すっきりとしたフォルムの、コートジボワールの仮面を置き、
キキが手を添えている。
この写真を見た詩人のジャン・コクトーは、
”シックの極致” と 評した。
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今週は 写真家のマン・レイです。
今日の一枚は、エコール・ド・パリの芸術家たちから
モデルとして愛された、”モンパルナスのキキ” を写した 『黒と白』(1926)です。
マン・レイは本名ではない。 直訳すれば ”光線男”。
自身について語ることを嫌い、私を知りたければ私の作品を見てくれ、と言った、謎多き男。
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アントニ・ガウディは、かつてリュイス・ドメネク・イ・モンタネールの
教え子だったのだという。
その作風から ”花の建築家” と呼ばれ、建築界の中心にいたドメネク、
最後までアウトサイダーとして存在した ”神”、ガウディ。
たったひとつの共作は、バルセロナの中心となるカテドラルの案。
しかしコンペでは落選したこの作品。 その後、2人の道の違いは
鮮明となり、二度と 共に制作することはなかった。
スペイン建築界の中心人物として生き、世を去ったドメネク。
”世界一美しい音楽空間” とも言われるカタルーニャ音楽堂は、
1997年、世界遺産に登録された。
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元々は独立していたが、スペインに統治されて自治権を失ったカタルーニャ。
そして、かつてのカタルーニャの空気を呼び戻そうと
カタルーニャ・ルネサンスの機運が高まる。
19世紀末から20世紀初めのカタルーニャで起こった芸術運動が、
”モデルニスモ” だった。
建築では、まさにガウディやドメネク・イ・モンタネールが中心だった。
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今週は建築です。 リュイス・ドメネク・イ・モンタネール作、
カタルーニャ音楽堂(1908)。
装飾過多とも言える外観。
それは、同じスペインで同時代に生きた ”建築家の神”、
アントニ・ガウディの存在なくしては 語れない。
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ルソーの絵の色彩を より 引き立たせているもの、
それが、ルソーの ”黒”。
そのうち、新しい絵画表現を求める多くの人々が、
ルソーの絵に 心酔するようになっていった。
そして、ゴーギャンは こう言ったという。
「この黒は 誰にも真似ができない」
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絵画としてではなく、 絵を描く人向けに、
なんと カンヴァスを ”再利用” するという用途のため、
たった5フランで 売られていたルソーの絵。
しかし ピカソがそれを買い、「もっとも真実味のある肖像画」
と言って絶賛、 その絵を 生涯手放さなかったのだという。
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それまで 報われなかったルソーの絵も、『蛇使いの女』 が
前衛絵画の ”サロン・ドートンヌ” で入選。 誰もルソーの絵を
笑わなくなる。 それでも絵は売れず、生活は苦しかった。
今日の一枚に描かれている ジュニエ爺さんの店に、
ルソーは かなりのツケがあり、そのお詫びに この絵を描いたのだという。
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専門的な美術教育を受けていないため、遠近法を
自らの絵に 用いなかったルソー。
しかし、 当時 セザンヌやゴーギャンも
あえて 遠近法を無視した絵を 描いていたのに、
世間は なぜか ルソーの絵ばかりを笑ったのだという。
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今週は、”偉大なる日曜画家”、アンリ・ルソー。
今日の一枚は、『ジュニエ爺さんの馬車』(1908)です。
さっきから、薫さんのおだやかな声による ルソーへのツッコミが楽しい。
”子供のような絵” と言われながらも、人々を魅了するルソーの絵とは。
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関東大震災と、それに続く金融恐慌、その危機から造船所と
社員を守るため、やむなく美術品を手放し、美術館をつくる夢も
実現が叶わなかった松方。
ブラングィンもまた、本来なら 代表作と呼ばれるに至ったであろう 大作を
火事で失うという悲劇に見舞われ、美術界の表舞台から姿を消し、
今では 忘れられた芸術家となった。
芸術が 広く世に親しまれることを望んだ実業家と芸術家の、数奇な人生。
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美術品収集に力を入れた松方幸次郎は、造船所の社長であり、
そんな松方の琴線に触れたのが、ブラングィンの 造船所の絵だった。
日本に美術館をつくる夢を、ブラングィンに語った松方。
美術館のためにブラングィン作品を得ることも、ロンドンでの美術品収集に
ついても ブラングィンに相談した。
めったに肖像画を描かなかったというブラングィンが、松方の肖像画を
描いていることからも、ふたりの交友がうかがえる。
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漱石も、小説「それから」の中で ブラングィンに言及するほど
その当時は よく知られた存在だったブラングィンだが
(漱石はロンドン留学の経験がある)、現在では なぜか その名を
ほとんど忘れられている。
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今週は、イギリス人芸術家 フランク・ブラングィンです。
今日の一枚は、『造船』(1910-15)です。
ル・コルビュジエ設計の国立西洋美術館の軸となる松方コレクション、
そして松方幸次郎とブラングィンとの その関わりとは。