ほんの一刹那に、肺を突き抜ける破裂音を聞いた。奔流か突風のような、この世界の不変の力が持つ音に似ていた。それがいま彼を世界の外へ連れ出した。もう静寂は絶対だ。何も入り混じることがない。
「低地」ジュンパ・ラヒリ 最終ページから
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ほんの一刹那に、肺を突き抜ける破裂音を聞いた。奔流か突風のような、この世界の不変の力が持つ音に似ていた。それがいま彼を世界の外へ連れ出した。もう静寂は絶対だ。何も入り混じることがない。
「低地」ジュンパ・ラヒリ 最終ページから
いつもひとつのことを考え続けていると、脳の自動処理能力が働くのか、瞬時にアイデアが湧き出ることがある。人によってそのことを「神様が降りてきた」とか「曲が宇宙から降りてきた」という表現をするようだが、僕の場合は、頭の中でカーンと鐘が鳴る。
(中略)
考えてみれば、子どもの時からそうで、試験が難しくて四苦八苦しているときにも、頭の中でカーンと鳴り「あ、わかった!」と、問題が解けてしまうことがよくあった。
誰かが教えてくれているのかなと思っていた。
高見沢俊彦 あきらめない夢は終わらない p. 163
最後の一行を見てほしいがためにあげました 笑笑
ちなみにこの本は図書館でみつけたもの
家に帰るまでが遠足なら、
欠点を愛せるまでが愛情、
再度依頼をもらえるまでが仕事、
忘れてたことも忘れるまでが思い出、
その人の香りをもう愛せなくなると潮時で、
傷つくことも傷つけることもできなくなるまでが失恋。
いつか別れる、でもそれは今日ではない F
幸せとは、ひらりと逃げていく蝶のような、あるいは風に流されていく花の香りのような、ほんの一瞬たまたま手に入るものなのである。ニーチェは陰気でニヒルな人生観の持ち主として知られているが、幸福の鍵「もっとも微量で柔和で軽いもの、トカゲの這う音、呼吸、ほんの一瞬」を喜ぶことだと言っている。
ジョン・ファーンドン 「オックスフォード&ケンブリッジ大学 世界一『考えさせられる』入試問題」18. オックスフォード大 「幸せだ、とはどういうことですか?」(哲学・現代言語学) より
あなたは あなた
あかちゃんだった あなたは
からだと こころを ふくらませ
ちいさな いちにんまえに なりました
そして さらに
あらゆることを あじわって
おおきな おとこのひとや おんなのひとに
なるのでしょう
でも あなたに とって
たいせつなのは
あ な た が あ な た で あ る こ と
マーガレット・ワイズ・ブラウン作 レナード・ワイスガード絵
内田也哉子訳 「たいせつなこと」 より
牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。僕のような老獪なものでも、只今牛と馬とつがって孕める事ある相の子位な程度のものです。
あせっては不可(いけま)せん。頭を悪くしては不可(いけま)せん。根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えて呉れません。うんうん死ぬ迄押すのです。それだけです。決して相手を拵(こしら)へてそれを押しちゃ不可(いけま)せん。相手はいくらでも後から後からと出て来ます。そうして吾々を悩ませます。牛は超然として押…[全文を見る]
子供の頃からテンポがのろく、ひとをたすけるよりは圧倒的に人にたすけられてきた。でも、だからこそ依存は恐怖だったし、これまでずっと、なんでも一人でできるように、というふうに(結果はさておき)思ってきたのだった。
たよってもいいのだ。
あるときふいにそう思いついたのだけれど、そう思ったときの居心地の悪さは忘れられない。
色つきの世界というのはたぶん、この依存と関係があるのだろう。大人にしかできない依存もあるのだと、夫に出会って知ったように思う。
江國香織「色」(「いくつもの週末」所収)
村田は精神障害者のリハビリテーションにおいて「価値論」からのアプローチの重要性を指摘し「障害の相互受容と自己価値再編」のプロセスとしてまとめている。障害の受容には挫折体験が欠かせないとされているが、多くのメンバーは作業所に来るまでに何度も挫折体験を繰り返している。しかし、なぜ挫折するのか明らかな答えが得られないまま、疲れ果てて作業所にやって来る人が多い。そうした人の一番の支えは同じ障害をもつ仲間との出会いである。はじめは精神薬を飲んでいることを隠さなくてもいい「行く場所」ができた、という程度で、他のメンバーとのつきあいも浅い。…[全文を見る]
別れが哀しいのは、いい恋だったから。
(はあちゅう)
失恋とは、それ以下の状態にならない最強の状況。
(はあちゅう)
どこで何をされている、どんな方でも、死の前では平等だという事が、どうかロマンティークから引き剥がされません様に。「レクイエムの名手」なんて仇名を、この本が奇麗さっぱり祓い清めますように。母親がこの本を手に取るなり、吠えながら投げ捨てるか引きちぎるかしますように。
2015年9月10日 午前9時11分 コンビニのみたらし団子に喰いつきながら。
菊地成孔
「レクイエムの名手」あとがき、最後の段落
サラリーマンという職業はないように、大学生という抽象物が存在しないように、普通の人なんて本当はいない。
絶対人前に言えないような性癖は、誰しも一つくらい持っていたりするものだ。そんな病気を隠すのが上手い人が多いだけだ。普通の友情もなければ、普通の恋愛もない。普通の幸福もない。
重病の人が生きやすくなるためには、なんとか病気を治してなんとか普通の幸福を追求しようとするよりも、その病気を形にして周りに撒き散らし、流行らせてしまうのが一番良い方法じゃないかと思われる。
ただのメンヘラはだめだ。しかしメンヘラの神様は最高な奴ばかりである。
その病気を撒き散らしきった後、女にも男にも、総じて人間は大して個性などないということがはっきりと証明されるだろう。
そして、病気であったことが、いつか救いになるだろう。
『劣等感は可愛い』(「いつか〜」所収)
最終的な人生の質はその人の美醜でも
年収でも学歴でもなく、出会った人と、
その人となにを話すことができるかだと思う。
受験や就活で失敗しても、
好きになれそうな人、憧れるほどかっこいい人や、
騙されてもいいと思えるような人に出会えたら、
それが一番良いと思っている。
「いつか別れる、でもそれは今日ではない」
ずっと一緒にいたい、という執着より、
いつかは別れる、という覚悟を。
なにかしてほしい、という甘えよりも、
なにかをしてあげたい、という御節介を。
哀しい、という脆弱性よりも、
哀しくさせられて嬉しい、という少しの異常を。
「いつか別れる。でもそれは今日ではない」F (KADOKAWA)
私の通った大学には、変わった名前の先生が多かった。
たとえば、学内の掲示板に〈来週水曜日のロボ先生の宗教学IIの講義は休講です〉などと貼り出される。
ロボ先生! 私たちはどよめいた。 全身メカかよ!
別の日には〈何先生の倫理学の教室が変更になりました〉と貼り出される。
何先生! 私たちはまたどよめく。 何先生って何!
そんなことになるのは、たぶんその大学がイエスズ会系だったせいだ。教員の何割かは、いろいろな国のイエスズ神父によって占められていた。ロボ先生が何国人かはわからなかった。
きわめつきは、ラブ先生だった。
岸本佐知子 「愛先生」(「なんらかの事情」所収)
高井戸では斉藤がわたしを待っている。わたしが待っている男は遠く離れたところにいて連絡も取れない。何してるんですか、と言って酒井が現れた。襟に狐の毛皮のついたコートを着た女がロビーを横切ってこちらに向かっている。携帯を持った酒井が、その女に手を振った。チラシを見た女がまたこのホテルのバーにやってきたのだ。酒井はわたしのすぐ横にいるが、顔が見えない。ロビーを横切ってこちらにやってくる女の顔もはっきりとはわからない。そういえば、バーにいた男たちも、二人の女も、高井戸で待っている斉藤の顔も、わたしははっきり覚えていない。いったい誰が蟻の顔をいちいち判別できるだろうか。新しい女がわたしのそばをすり抜けてバーの中へ消えた。
(村上龍 「クリスマス」)
このごろ天国のことを考えるのは、両親が死んで以来、私はずっと思ってきたからだ――二人がそこにいるのを思い描けるような場所がどこかにあるんだと信じられたらいいのに、と。私は思っている。いろんなものが、私がまだ若かったころのように見えたらいいのに、と。
若かった日々 レベッカ・ブラウン
結局のところ、我々は自分の内面から相手に相似したものを取り出して、それを拡大解釈して理解した「つもり」になることしかできない。所詮は他人事でしかない。だが、せめて他人の心を推し量ることはとんでもなく難しいのだという「謙虚さ」を持っていなければまずいだろう。
春日武彦「精神科医は腹の底で何を考えているか」
30歳になる年、ソフトウェア会社から銀行のシステム部に転職した。副部長から
「2年間は猶予する。ただし3年目からは一切容赦しない」
と言われた。「即戦力」と気負っていた私が、どれだけ救われたことか。
数年後、部下を持つ役職になった時、上司に言われた言葉も心に響いた。
「一番の仕事は、お前の後継者を育てることだ。何もかも自分でするな。下の者に任せて育てろ。それが、お前の仕事だ」
部下を信用せず、休日出勤して仕事をこなすことが役割と思っていた。青天の霹靂ともいうべき言葉だった。
転職や移動を機に精神的な安定を崩し、受診に来る人は少なくない。そんな人たちには、この二つのアドバイスを伝えている。
薬よりずっと効き目がある。
新聞投稿欄、精神科医から
僕は6歳から11歳の頃までニューヨークに住んでいたのですが、日本に帰って来た時にはカルチャーギャップを感じました。
たとえば、学校で第二次世界戦争について教わることについても、日本とアメリカの教え方は全く違います。
僕はアメリカで最初に学んでいたので戸惑いがありました。
また、中学校の頃いじめられたことがあったのですが、先生に「やめさせてください」と言っても先生達は何もしてくれず、その時もアメリカと日本は違うと思いました。
アメリカでは、どんなことがあってもとにかく自分の意思を伝えないとダメ、周りの大人に言ってわかってもらってそれが改…[全文を見る]