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美の巨人たちのことを語る

ひこにゃんまで出てきたー

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モデュロール兄弟の出自の復習:
ル・コルビュジエが設計の際に用いた寸法体系がもと。
番組の建築特集の回に登場。 今回の登場はかなり久しぶり。

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今週は 日本の国宝建築シリーズ①彦根城。
久しぶりに モデュロール兄弟出てきた!

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グイド・レーニ作 『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』(1662)
という作品があり、フェルメールの 『真珠の耳飾りの少女』 は、
この作品にインスピレーションを得て 描かれたのではないか、という説がある。

『ベアトリーチェ~』 では実在の人物が描かれている。
この絵に描かれた少女の悲話は 当時ヨーロッパに広く知られていたため、
フェルメールも、実物ではないにしても その作品の模写を見、
頭に布を巻いたベアトリーチェ(断頭台で 刃が滑らないようにするための布)を
見て、『真珠~』 の 青いターバンの少女を描いたのではないか、という。
(当時のオランダに ターバンを巻く流行などはなかった。)

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今週は、ヨハネス・フェルメール(1632-1675)です。
今日の作品は、『真珠の耳飾りの少女』(1665-66頃)です。
オランダ第3の都市デン・ハーグにある、
マウリッツハイス王立美術館におさめられています。

フェルメールの絵画で現存するのは三十数点、
それら作品のすべての面積を合わせても、
同じくオランダの大画家であるレンブラントの大作
『夜警』 の面積に、おさまってしまうほどだという。

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1960年公開、ハリウッドの歴代サスペンス映画の中でも
あまりにも有名な、アルフレッド・ヒッチコック監督作品 『サイコ』。

この映画の登場人物ノーマン・ベイツの住む家、あの家は、
“エドワード・ホッパーの 『線路わきの家』 から 唯一のインスピレーションを得た”
と、ヒッチコックが かつてインタビューで語ったことがあったという。
1800年代後期に建てられた、『線路わきの家』 のモデルとなった家は、今もあるという。

そして ホッパーは、映画を見るのが好きだったのだそうだ。
だから彼の作品は、その構図などに 映画的なものを感じさせるのではないか、と。

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ニューヨークのワシントンスクエアに、
エドワード・ホッパーのアトリエが 今も残されているんだとか。

美術学校を卒業し、画家を目指して
ヨーロッパへ渡った若き日のホッパーは、
印象派に 非常に強い影響を受けたという。
しかし1900年代初頭の母国アメリカでは、
ホッパーの その絵は受け入れられなかった。

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今週は、エドワード・ホッパー(1882-1967)です。
今日の一枚は、『線路わきの家』(1925)です。

ニューヨーク近代美術館 通称MoMAの、収蔵第一号の作品だとか。

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施主の妻と駆け落ちしたことがあるという、
建築家フランク・ロイド・ライト。
彼に設計をまかせるとなると、“ライトに妻を見せるな” と
言われることもあったらしい。
駆け落ちしてアメリカから姿をくらまし、
そのあと日本で帝国ホテルを設計したとか。

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今日は、フランク・ロイド・ライトです。
今週の作品は、1957年建設 マリン郡庁舎です。

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そのカイユボットが、遺言書に、自らのコレクションを、
リュクサンブールに寄贈し、のちにルーヴルにおさめてほしい、と書いたという。

遺言の執行人に指名されていた画家ルノワールは、
カイユボットの死後、作品をルーヴルにおさめるよう 国にかけあうが、
伝統を誇るルーヴルに、当時まだ 今のように
認められていなかった印象派の絵画を、国はおさめてくれない。
しかし、粘り強く戦った結果、このことは国民からも注目を集め、
国は カイユボットコレクションをおさめざるを得なくなったという。

その、カイユボットの集めた印象派絵画が、
現在の オルセー美術館の所蔵品の基礎となっている。

自ら作品を描きつつ、まだ 世に認められていなかった
頃から 印象派の絵画を買い取り 画家たちを支援し、
美術館の基礎となるほどのコレクションを遺したカイユボット。
カイユボットが いたからこそ、今のオルセーが在るのである。

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この美術館にとって もっとも重要であると、
オルセー美術館が考える画家―
それが、ギュスターヴ・カイユボットであるという。

画家になってはいるが、カイユボットは、もともと、
不動産業で財をなした父のあとを継ぐはずだったという。
ドガと出会って 新しい絵画を知ったカイユボットは、
印象派の画家たちと交流、自身も作品を創作するかたわら
(『床を削る人々』 は印象派の画家たちからも絶賛された)、
印象派の絵画を買い取るなどして 支援も行う。

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印象派の殿堂オルセーにおさめられた、
モネの連作、『ルーアン大聖堂』。

ルーアン大聖堂の正面を描いたこの作品だが、
ひとつの対象を、時間帯を変えて 様々な光の瞬間を
とらえるために何枚も描いたモネらしく、
この大聖堂も 何枚も描いたモネ。

大聖堂の向かいの建物、当時ブティックだった部屋を
春だけ借りて、何枚も大聖堂を描いたという。
しかし、全体像を描かずに 正面だけをとらえたその絵は、
大聖堂を描きたかったのではなく、大聖堂を包み、
大聖堂に反射した春の光を、描きたかったのではないかという。

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オルセーは、もともと1900年のパリ万博のために
つくられた駅だった。

建築家ラルーは、フランスのモニュメント的建築である
ルーヴルとの対比に悩み、その結果 オルセー駅を、
エッフェル塔をしのぐ数の鉄骨を使いながらも その鉄骨を隠して
外観を石造りにし、新しい駅舎をパリに溶け込ませた。
駅だった当時のオルセーには 付属のホテルもあり、
370もの客室があったという。

しかし、30年ほどで、オルセーは 駅としての役目を終えた。
廃墟となった駅舎だったが(戦時中には避難場所等にも使われた)、
のちに 歴史的建造物として認められ、美術館として生まれ変わった。

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オルセー美術館が 美術館として誕生したのは、1986年である。
もともとは 駅舎だった。

近現代の作品を所蔵しているオルセー。
印象派の作品の所蔵数は世界一である。

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最近では、『洗礼者ヨハネ』 のモデルといわれる
レオナルド最愛の弟子サライが、実は 『モナ・リザ』 のモデル
でもあるのではないか、とみている専門家もいるという。
(イタリア人のジョコンダ夫人がモデルである、というのが定説だが。)

さらに、細かく解析すると 『モナ・リザ』 の瞳の中に
LとSではないかと思われる文字らしきものがかたどられており、
それがレオナルドとサライを表すのではないか、ということで
調べている専門家もいるという。

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“単なる肖像画” と思われていた 『モナ・リザ』 が
見直されたのは、皮肉にも、盗難に遭ったことが原因だという。

シュルレアリスムの詩人アポリネールが疑われた
(かつてルーヴルで起こった盗難事件の犯人と知り合いだったせいで
疑われたという)この 『モナ・リザ』 盗難、
真犯人は ルーヴルに出入りしていたガラス職人だったというが、
盗難をきっかけに注目された 『モナ・リザ』 が
ルーヴルに戻ると、とたんに専門家の研究対象となり、
その研究の結果から、比類なき絵画であると 位置づけられたという。

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ルーヴルが美術館になったのは、ナポレオンの時代である。

1810年、所蔵品のリストが作られたが、
その中に 『モナ・リザ』 に関する記述もあるという。
モデルとなった女性の名、そして 王が4,000エキュで買い取った、ということ。

その金は、レオナルド最愛の弟子サライ(『洗礼者ヨハネ』 の
モデルといわれる)が受け取ったのではないかという。
師が没し、イタリアに帰ることになった彼の、
帰国費用ほどの金額だった、という。

当時は 聖書の物語を描いた絵画のほうが重要視され、
“単なる肖像画” と捉えられた 『モナ・リザ』 は、
さして重要であるとは 思われなかったのである。

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フランソワ1世の建てた城にはルネサンス様式のものがあり、
それは レオナルドの助言があってのことではないかという。

イタリア美術、ルネサンス様式に傾倒していた王は、
フランスを ルネサンスの息吹をたたえた国にしたかった、
そのためにレオナルドの助言を必要としたが、
渡仏後3年でレオナルドが没したことにより、実現しなかったのではないか―
というのである。

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フランソワ1世が建てたフォンテーヌブロー宮殿に、
『モナ・リザ』 があったという、先週の話の続き。

フランソワ1世が、イタリア・ミラノに攻め入った時、
レオナルドと出会ったという。
イタリア美術に心酔していたフランソワ1世が、レオナルドを
フランスに招いたという。
しかし、フランスに来てから、レオナルドが絵を描いた記録はない。

レオナルドは フランスに来た時、自分の作品3枚、
『洗礼者ヨハネ』(レオナルドが最後に描いたと言われる作品)、
『聖アンナと聖母子』、そして 『モナ・リザ』 を携えていたという。

『モナ・リザ』 を、王が フォンテーヌブロー宮殿の
浴室で鑑賞していたらしい記録が残っているというが、
フランスに来て3年で没したレオナルドが 終生手放さなかった
この絵が、どういう経緯で王の手元に、ひいてはフランスに残ったのか。