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手元に茶器の資料がないので出水康生「戦国おもしろ百話」からですが、三好宗三は江口合戦の4ヶ月前、天文18年2月11日の茶会の記録として、主客は武野紹鷗、相伴客に江州源六と津田宗達、茶道具の中に曜変天目が数えられています。ただ、宗三所有の名物には数えられていないので、当時は宗三以上に名物を持っていた紹鷗の物かも?
あと実休所有の名物にも曜変天目があるそうですが、その後誰に渡ったかは触れられていません。
のぶやぼ的に有名な三日月葉茶壺は三好咲岩経由で信長に渡り、本能寺で焼失したとか。

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twitterで焼き物好きっぽい方々が「あんなの曜変天目じゃない」って言ってて、ちょっとしょんぼりしました。
放映されてたらしい系図の画像も見たところ、義長(義興)「家臣松永弾正久秀毒殺ス」とか、長慶「永禄四年摂州中ノ嶋城ニ隠居ス同七年ニ死ス」って書かれてて、うーん…。
NHKで曜変天目の番組を再放映するからそれ見ろって話でしたが、いや別に曜変天目自体に興味があるって訳じゃないし…という感じです。実際見ても自分には本物かどうかなんて分からないし。
ちゃんと続報あるといいんですが…。

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やっぱり…。

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出城の方の真田丸って、真田が築いたっていうから、真田丸なんですよね?
だったら、長宗我部盛親が築いたっていうなら、長宗我部丸。言いにくいな。
明石掃部が築いたっていうなら、明石丸。なんか漁船っぽい。
そして、塙団右衛門なら、塙丸になってたんですよ!バンマル!!かっこいい!!(知らんがな)

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そして中川清秀つながりですが、図書館にこんな貼り紙がありました。

現在の西宮市田近野町あたりを拠点にしていた田近氏出身、中川清秀の側近を務めたという田近新次郎についての講演だそうです。
なんで平日やねんという感じですが、まあスタッフも仕事でやっておられるのでしょうし、しょうがないですね。
http://www.nishi.or.jp/print/0004034700040004900713.html

ちなみに中川家とともに豊後岡藩に渡った一族とは別の、地元に残った田近氏は、現在の尼崎市西昆陽に移住し、庄屋を務めたそうです。移住の経緯については各自治体史によってまちまちのようですが…。
http://nishinomiya.areablog.jp/page.asp?idx=1000061497&post_idx_sel=11058293
そういや先日ちらっと見た尼崎市の文化財?歴史的建造物?の一覧に田近家住宅があったような。

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瓦林越後守の動向については、こんな興味深い記事を見つけました。

>【岡藩諸士系譜新古次第の記述】其租瓦林越後守代々摂州瓦林の城主、始室町家に属後伊丹家に属し後荒木に属摂津守村重か家老と成る。天正八年荒木亡ひて太祖の旗下に属す
>西宮の瓦林党は室町家⇒伊丹氏⇒荒木氏と主を渡り歩き、村重謀反の折は家老の一人として支砦の守将だった。有岡落城後には族党の女が村重室Daxiと運命を共にしている。
http://www.e-bookland.net/campaign/otakara03.html

「岡藩諸士系譜」というのはおそらく「豊後岡藩中川家文書」所収の「諸士系譜」で、瓦林越後守の子孫は…[全文を見る]

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また、年次不詳2月10日に三好神五郎(政長?)と申し合わせて軍勢を出すよう細川晴元から要請されたという瓦林又四郎は越水城に在城しており、あるいはこの時も瓦林一族同士が越水城を巡って争う一幕があったのかもしれません。

そして、一貫して高国党として活動していた瓦林対馬守は、三好長慶が晴元方から離反して旧高国党の流れである氏綱に与した際、入れ替わるように晴元によって取り立てられ、三好政長の敗死に伴い再び没落してしまうわけですが、一方で長慶を支持したという河原林弥四郎の名も伝わっており、一族には澄元→晴元→長慶とうまく乗り換えた者もいたよう…[全文を見る]

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三十郎はもはや信繁を救うことが叶わないことが分かっていて、ならば自分も信繁の元で戦いたかったんだろうな、本当は。あの慟哭はそういう風に感じられました。作兵衛もその気持ちが分かるからこそ、慰めていったんだと。本陣にあって冷静に努めていた小山田茂誠との対比がまた良かったです。

信繁が少年の頃から彼に付き従っていた唯一の家臣として描かれていた三十郎、通説では信繁よりもずいぶん年上とされてますが、実は彼の父矢沢頼綱ともども当時の史料からは真田家との関係や実年齢が分かっていません。丸島先生によると通説の信繁とほぼ同じ年齢だったと推定できるそうですが、先生は信繁の生年も通説の永禄10年から更に5年ほど下った元亀3年と推測されています。
ドラマではどうだったのか分からない(覚えてない)んですが、少なくとも三十郎の年齢は新説が採用されたんでしょうね。良い役回りだったと思います。

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真田丸
いやぁ、良かった…良かったけど…後は皆様のご想像にお任せ的な終わり方がちょっと…スッキリしないかんじ(´・ω・`)
でもまあ、秀頼生存伝説などもある中、そういうのも引っくるめて可能性は否定しないよって事なんでしょうか。
個人的には、信繁と家康の長い会話は要らなかったかなぁ。六文銭のお守りとか、内記や作兵衛の死に様を通じて、信繁が背負っていたものは充分示されてたと思うので。喋ってる余裕があるならさっさと撃って!!て思いながら見てました(笑)
あと、三十郎の悲痛な叫びが良かった。僕はあそこが一番ぐっと来ました。
ただ、あの戦いでおそら…[全文を見る]

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西宮市史で推測されていたように、澄元方であった瓦林新五郎が後の京兆家在京奉行人・瓦林日向守国時だとすると、やはり何かの時機で高国方へと鞍替えし偏諱を授かって在京して数年後、(軍記によると) 伊丹国扶、薬師寺国盛、波々伯部兵庫助らとともに「大物崩れ」で討死したということになりますね。義稙後期から義晴前期にかけて、京兆家領国では多くの城主クラスの武将が高国から偏諱を授かっていますが、薬師寺国盛などはこの討死の前年まで晴元方だった人物ですし、瓦林日向守も同様に考えて問題ないんじゃないかと思います。

遅くとも永正18年9月までに、つい前年…[全文を見る]

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「末吉文書」には瓦林氏が澄元方と高国方に分裂した状況が窺える内容が多く含まれます。
まず永正8年の澄元方上洛戦の際と見られる、12月14日付で澄元から瓦林新五郎に宛てた感状には「於摂州家原合戦、打太刀被疵、同廿三日摂○蘆屋城江詰寄、責落外城時、抽粉骨之由」云々とあり、瓦林政頼が守っていた蘆屋城(鷹尾城)の攻略戦に新五郎が従軍していたことが分かります。
7月13日「摂州家原合戦」は今まで読んだ本には出ていない戦いですが、典厩家の細川政賢や和泉上守護の細川元常らが高国方の摂津国人衆を破った和泉深井郷での合戦と同日なので、摂津ではなく和泉の家原…[全文を見る]

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凄く錆びてるのことを語る

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コネタ空耳ならぬ空目のことを語る

○「長考力」
×「長州力」

しかたないね

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コネタ何かを受信のことを語る

信号変われや 変われや信号

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