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永正17年3月3日付、赤松兵部少輔に宛てた御内書案
> 就今度京都無事之儀。太刀一腰。西長。馬一疋鹿毛。到来。悦喜候也。
赤松義村から「京都無事」を祝って太刀や馬が贈られてきたようです。前年から澄元を仲介していた義村に対する返礼は、すなわち将軍が澄元を受け入れたことの表明にも思えますが、この時点ではまだ畠山稙長が高屋城で澄元方への抗戦を継続しており、数日前に稙長を激励する御内書を送ったばかりです。
義稙自身がどのような決着を望んでいたのかは分かりませんが、やむなく澄元を受け入れるにしても、必ずしも旗幟を鮮明にしなくとも良いという将軍…[全文を見る]

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「細川両家記」では「然に同二月廿七日に難波より三好筑前守之長。京へ上り給ひ。都にて威勢申計なし。」と、2月27日には京都に入っていたかのように書かれていますが、今谷先生の「戦国 三好一族」には三好之長は2月20日に大山崎に入って1ヶ月滞在したとあります。山田先生の義稙本でも3月27日に之長率いる2万の大軍が入京したとあり、「二水記」3月27日条にそれを見た感想が記されているようなので、三好之長の入洛は3月27日で間違いないと思います。
なお、入洛が遅れた理由として今谷先生は「澄元の体調が思わしくなかった」「慎重に情勢の推移を見極める時間」「京都近…[全文を見る]

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話を戻して、2月16日の戦いでは「大物北の横堤」で戦闘があり、雨が降って中断したとありましたが、おそらく相当な悪天候の中での合戦だったのではないかと思われます。
「続南行雑録」より、少し飛んで3月の風聞。
> 三月十六日、河内高屋城落畢、御曹司、同遊佐、越智請取落シ被申訖、当國一圓ニ越智進止也、武家一向ニ不及入部者也、六郎殿ハ、去二月十六日夜尼崎舟沈テ他界云々、未諸人六郎殿ヲ見ル者一人モ無之云々、
高屋城が落城して「御曹司」畠山稙長・遊佐氏から越智氏の手に渡り、大和も越智が支配するところとなったが、武家は入部に及んでいないとのこと。…[全文を見る]

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( ´-`)。o 0(…「フナの恩返し」…幼少の頃、バス待ちの暇つぶしにドブにいた子ガエルの群れに石投げて殺害していた僕は、いったい何を返されるか…恐ろしい…)

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プレミアムなフライを色々と考えて、これを思い出しました。

もう10年近く行ってないけど、検索してみたら、まだお店あるみたい。でもフライデーに訪れるのは難しいかなぁ。

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プレミアムフライデーなので、今日はアジフライの半額シール付いてないやつを買おうと思います。

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脱線しますが、「細川両家記」の2月16日の尼崎・長洲での合戦では、大物北の横堤に高国方の香西与四郎が攻め寄せ、三好孫四郎と太刀打ちしてどちらも名を上げたが、日が暮れて雨も降ってきたので双方兵を引いた。高国は劣勢と見て各城に連絡して京都へ撤退したとあります。

「香西与四郎」は香西元長兄弟を代表する上香西氏には見えない名前で、晴元期に丹波で活動した香西元成が与四郎を名乗っていることからその父と見られているようです。この香西元成は讃岐での活動が見られないのですが、「香西記」が伝える下香西氏の系譜に元定-元成-元清とあるため、Wikipediaで…[全文を見る]

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「続南行雑録」より2月5日の風聞。
この史料は「続々群書類従 第三 史伝部」所収、八木書店によると「水戸の儒臣佐々宗淳が元禄年間に奈良で採訪した春日若宮社司家代々の記録と寺社の由緒故事」とのこと。実は狙って読んだわけではなく、たまたま手に取って開くと見覚えのある名前の史料だったので読んでみると…まさしく、という感じでした。「祐維記抄」という名前で引用されていることも多いみたいです。
>二月五日、伝説云、津國コシ水ノ城、去三日夜落了、大将ハ河原林也、勢ハ不損云々、池田イタミ迄細川方ノ人勢悉以引退云々、

「細川両家記」によると、三好之長…[全文を見る]

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「細川両家記」によると永正17年正月10日、高国は越水城を救援すべく二万余で攻め寄せましたが、戦況を覆すには至っていません。
そんな状況の中、正月13日に今川修理太夫(氏親)に宛てた御内書案。
>就澄元摂州出張之儀。飛脚到来。尤神妙候也。
京都から遠く離れた駿河の今川家でも、澄元の上洛戦の様子が気にかけられていたのでしょうか。

その後、2月3日には越水城が開城したため、高国は尼崎・長洲まで陣を後退させました。
2月6日、佐々木中務少輔(京極高清?)に宛てた御内書案。
>京都忩劇之條。不移時日令参洛。抽忠節者可為神妙候也。
高国方の劣勢が伝…[全文を見る]

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先日はこの「御内書案」の続きと「続南行雑録」より永正17年頃の動向を確認しました。

永正16年12月8日付御内書案、細川右京大夫(高国)に宛てたもの。
>其後者時宜如何候哉。無心元候。早速勝利被待思食候。猶貞辰可申候也。
澄元方はこの頃越水城を攻囲中、以下「細川両家記」によると高国は11月21日に京都を出て12月2日に池田城に入り、越水城の後詰めのために武庫川沿いに布陣して合戦という状況。

同年12月28日には佐々木四郎(六角定頼)に宛てて。
>連々不可存疎略之由。被聞召訖。彌致忠節者可為神妙候也。
六角氏に対する援軍要請です。2月には高国が近江へいったん退去するも将軍義稙はそれに従わず京都に残り、三好之長が京都に入るわけですが、高国方は5月に六角氏の援軍を得た上で丹波勢と呼応して反撃、という流れになります。
六角氏の反応がもう少し早ければ、義稙も澄元を受け入れることはなかったのかもしれません。

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岩松=南朝云々はtwitterで全く同じこと言ってる人がちらほらいたみたいですね。南北朝好きな方々が盛り上がってたとか。
というか、井伊=南朝方ってこれまで作中で一度も触れてなかったのかな?あんまり集中して観てなかったので覚えてないけど…。

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南北朝期に井伊家は南朝方だったそうですし、岩松といえば近世には大名家ではないものの、正式な(素性の不確かな徳川家とは違って)新田一族として徳川家からも尊重されていたそうなので、南朝を通じた連帯意識みたいなものがあったのかな?と…ただの思いつきですし、今Wikipediaを見たら上野の岩松氏本家は足利氏に従っていたみたいですが。
でも、政次が彼なりにあのような策を用意していたとすると、直親の短慮への苛立ちだけでなく、次郎法師の振る舞いにも大いに傷付けられていて、それが後の行動に繋がっていくという話なのかなぁと思いました。