http://h.hatena.ne.jp/shinobu11/298117990081806556
「ハロウィン コスプレ」で検索してみました!!
お話しするにはログインしてください。
ホリィ(新人)のことを語る
ホリィ(新人)のことを語る
途中、色んな人が開拓した?経路に印が付けられてます。
どれが正解なのか分かりませんが、階段の方が足に負担がかかる気がしたので…
シュルシュルーっと…
…[全文を見る]
ホリィ(新人)のことを語る
飯盛山には神社の脇から入っていきます。
なだらかな登山道を歩いて行くと、山頂と御机(みつくえ)神社の分かれ道。
御机神社は中世は牛頭天王社で、三好長慶の頃には飯盛城鎮護の神として崇敬されていたそうです。
そちらにも登山道はあるそうなんですが、時間が足りなくなりそうな気がしたので山頂方面へ急ぎました。
そこで出迎えてくれるのがこの急斜面ですよ。(写真ではいまいち分かりづらいですが)階段あるだけマシとはいっても運動不足の身には堪えます。
後方から地元お年寄りの軽快な足音が聞こえてきたので、これは追いつかれないよう頑張らないとって、一…[全文を見る]
ホリィ(新人)のことを語る
ホリィ(新人)のことを語る
http://h.hatena.ne.jp/poolame/299841980042507425
( ´-`)。o 0(… …)
ホリィ(新人)のことを語る
実際に京都では法華宗の妙蓮寺、立本寺、本能寺が赤松勢の陣所にされるとして、これを破却すべしとの風聞が立ちます。
その後、河内では政元被官の上原元秀による義材本陣への奇襲攻撃が行われますが、京都へ帰還した赤松・浦上軍は本能寺、妙蓮寺に入ったものの、妙満寺は既に寄宿免許の申請を受けた政元方が制札を打っていたため、その門前で赤松・浦上勢と細川勢が衝突、妙満寺の仏殿・諸堂が焼け落ちるという事件が起きました。
政則は直前に政元の姉(洞松院)を継室に迎えたばかりで、嵌められたという思いが強かったと思いますが、政元との間で何らかの交渉があった…[全文を見る]
ホリィ(新人)のことを語る
明応の政変に際しての、義興と赤松政則の動きが興味深いです。
浦上則宗は明応の政変に関与していなかったと言われますが、むしろ赤松や大内も含めた多くの守護家が、計画の全貌を知らないままその一部に加担していたようです。
政変に至る原因となった畠山政長と将軍義材による河内親征には、義興も父に代わって参加していますが、最後まで河内には赴かず堺に布陣しており、京都での政変の知らせが河内の義材本陣に届くと、安芸や石見の国人達は堺に逃げ込んでいるそうです。
この時、赤松政則は若い義興と共に行動していたらしく、京都では両者が政元方に付いたことが噂…[全文を見る]
ホリィ(新人)のことを語る
きのこ
実物を見たかったけど、通り道には見当たらなかったよ…
ホリィ(新人)のことを語る
北西側の飯盛山麓にある四條畷神社の参道。
四條畷神社は小楠公こと楠木正行を祀るために明治23年に建てられた神社です。
鳥居を奉献したのは大阪朝日新聞社。扁額の裏には「大勲位熾仁」とありましたので、たぶん有栖川宮さんの揮毫?
…[全文を見る]
ホリィ(新人)のことを語る
山頂付近にある楠木正行像と戦時中の国旗掲揚台
…[全文を見る]
ホリィ(新人)のことを語る
義興の父の政弘はただのお人好しの坊ちゃんではなくて、結構やり手だったことが分かりました。
応仁・文明の乱では後始末の時期も含めて11年在京、その間に細川勝元がチョッカイ出して国元で起きた大内道頓の乱は、周防守護代の陶弘護が見事に治めたんですが、政弘は帰国後に吉見信頼を使って陶弘護を殺害させた疑惑があるようです。
信頼その場で内藤弘矩によって討たれたんですが、弘護殺害の凶器となった短刀が後に信頼の父に下賜されており、更に後年、今度は細川政元がチョッカイ出して、僧侶になっていた義興の兄高弘が謀叛した際、内藤弘矩はそれに加担したとして成…[全文を見る]
ホリィ(新人)のことを語る
今日は5時起きで飯盛山城行ってました。
…[全文を見る]
ホリィ(新人)のことを語る
twitterで(略
>>
萩の乱がなぜ起こったのか、なぜ小太郎も文之進も死ななければならなかったのか、よくわからないまま、誰にも見せなかった泣き顔をやっと見せる美和をカトリさんが抱き締めるための萩の乱だったのだと思うことにした
<<
萩の乱をどう描くのかだけを注目しようと思いつつすっかり見るの忘れてたけど、まあ別に見なくても良かったみたいですね!!!
ホリィ(新人)のことを語る
[怒られそうな何かを受信]
AKK48「人生は~手抜き工事~♪」(365日の手抜き工事)
ホリィ(新人)のことを語る
ホリィ(新人)のことを語る
次のブログ記事は将軍義稙から阿波公方に繋がる流れを読み解くものにしようと、思いつくままに雑文を書き溜めていってるんですが、複雑極まりないと言われる「両細川の乱」って、明応の政変直後から義材(義稙)を中心に据えて見れば、少なくとも前半は分かりやすくなるんじゃね?って思えてきました。
応仁・文明の乱が義視の立場を理解していないとちっとも分からないのと同じく。
複雑なものを単純に説明しても分かりやすくはならないのですが、どの辺を切り取って記事にまとめるかが悩みどころです。
まずは義尹の帰還前夜から船岡山合戦の後処理までかな。赤松氏の問題もからめつつ。
ホリィ(新人)のことを語る
1985年は何をしていましたか
阪神優勝で思い出したけど、バースの本塁打記録更新がかかった最後の試合で、巨人の投手が逃げまくったのがとても印象に残ってます。(ただでさえ嫌いだった巨人がますます嫌いになったし、王監督にも心底幻滅した)
当時は家でも学校でも阪神一色でしたね。みんなお気に入りの選手の下敷きとか持って来てたし。今は選手の名前もほとんど知らないくらいですが…。
でWikipediaを見てみたんですが
>>
当時巨人に在籍した外国人投手キース・カムストックは、後に自らの著書でこのことを振り返り、「バースにストライクを投げると、1球につき…[全文を見る]
ホリィ(新人)のことを語る
で、今更気付いたんですが、そういう風に評価されている「金言和歌集」の歌を挙げて、明応の政変のことを
>>
クーデターで覆された当時の社会についての
「乱れ行く世」「悪しき世」「濁世」(じょくせ)
などの極めて厳しい表現が、この政変の本質を物語っています
<<
と表現する『戦国黎明記』管理人さんのブログへのコメントに、細川政元が好きですとか、そのうち細川高国のことも書いて欲しいとか書いてしまったのは、無知とはいえ蛮勇の極みでした。
政元も好きですが最近は義稙将軍も好きになりました!っていうのは無節操でしょうか?
しかし、どこかエキセントリックな感じは両者に共通して好きな部分ですし、この二人の争いとそれぞれの結末が後々の戦乱に与えた影響を考えると、実に面白く感じるのです。
ホリィ(新人)のことを語る
「金言和歌集」で検索したら、続群書類従33下に収録されているらしい。
あと松島周一氏の論文「永正年間の今川氏と西三河の諸勢力について」がヒット。
http://repository.aichi-edu.ac.jp/dspace/bitstream/10424/4509/1/nihonbunka2097119.pdf
「叛逆者細川政元一党を痛烈に非難し義稙に殉ずる人々を賛美することによって泰平を願い義稙の代に還ることを祈る心を示したもの」と評価されているそうで。
義材方に通じた今川氏親と伊勢宗瑞による永正3年からの三河侵攻は、義澄方細川成之の領国で奉公衆の所領が集中していた三河が、両勢力の対決点になっていたとか。東国の動きも今はそういうふうに解釈されて来てるんだなーと。
ホリィ(新人)のことを語る
戎光祥出版の中世武士選書『大内義興』をチェックしたら、船岡山合戦について面白い話がありました。
澄元方と高国方の一大決戦的な扱いを受けるこの戦いですが、どうも事実はそうではなく、直接参加したのは当時澄元方の先鋒として京都入りを果たした細川政賢(尹賢の前の典厩家当主)だけで、鷹尾城攻略の原動力となった赤松軍は伊丹城で足止め食らっている状態、当の澄元も阿波に残留しているし、何より堺が大内方に押さえられていたので、当然阿波勢の参戦もなかったんじゃないかという話です。
堺では大内氏の水軍が健在で、摂津で負けた高国方の兵を収容していたそう…[全文を見る]