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ホリィ(新人)のことを語る

何か語ろうとすると、ああでもないこうでもない、これ書くならちゃんと調べないと、みたいな感じで結局ずるずる遅れていくという。
こいつ未熟だな、って思われるのは別に構わないんですが、こいつは信用できないな、って思われるのは嫌ですよね。

そういえば先日twitterで某映画監督(知らない人)がブログで「歴史学的に定説」という文句を添えつつ、そうではないことを書いてたみたいで、丸島和洋先生からすごい突っ込まれてるのを見て、ヒエエって思いました。
何の看板も背負ってない僕なら、「すみません適当なこと書いちゃいました」で訂正すれば済みそうな話ですが、そうでない人は大変そうだなと。
誰かの独自研究を誤って解釈したのか、自分の妄想に箔をつけるために勝手に定説にしちゃったのか、よく分かりませんが…。

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あれから、アクセス数は3桁越えていませんが


永禄の変の記事がなかなか好調です。

多分天野先生の新刊の影響かと思いますが、「三好政権」で検索して来られる方が増えてます明らかに。イイヨイイヨー
まあ、更新しろってことですよね。
結局『在京大名 細川京兆家の政治史的研究』の咀嚼に時間がかかりそうなので、twitterでのアンケートにかこつけてちょっと更新の準備してます…そう、準備はしてるんですが…。

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裏山にはお塚もちょっとだけあります。震災の影響か、だいぶ廃れている物も見受けられましたが…。



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当日の写真上げました。本当に変わってなかった(笑)



清盛隊が来てたっていう。1年近く見てなかったのでこの機会を狙って行きました。
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今日は諏訪山稲荷神社の初午祭へ行ってました。
初めて餅撒きというものに参加して、紅白のお餅何個かいただきました。ありがたやー
ちくわとかナッツの小袋も撒いてて、後ろの方にいたおばちゃんが「ちくわー!ちくわちょうだいー!」ってずっと連呼してたのが可笑しかったです。無事ちくわゲットできたのかは分かりませんが…

2009年の写真ですが、今もこんな感じでした。元は建御名方大神を祀る諏訪神社ですが、華僑の方々からの信仰を集めて稲荷色が濃くなったという経緯かなと。

なので諏訪神社なのに狐像という。
ちなみに夜景スポットで有名な諏訪山公園がある諏訪山の名前もこの神社に由来します。
2008年まで王子動物園にいたインドゾウの諏訪子も諏訪山動物園にちなんだ名前なので、元はこの神社に由来するということに。

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ちょっと脱線して、妙法寺の掲示板?にあった絵がかわいかったという…。



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この砂村を通るルートが、枚方を起点に八尾までを結ぶ旧河内街道でした。

砂村は江戸時代、北に光円寺と南に妙法寺に面した東町と西町が南北に延び、それに東西に横町という三つの街区で構成され、これを取り囲むように水路が巡らされており、旧河内街道はその中を抜けて南へと延びていたようです。

こちらは西町の通りですが、東町と比べると町並みは新しい感じです。

広い空き地がありました。古いお屋敷の跡かな?
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twitterで天野先生の『三好一族と織田信長 「天下」を巡る覇権戦争』が元々三好贔屓ではなさそうな人にも話題になってるようだったんで、以前からやってみたかったアンケートを実施したところ…。

もうちょっと篠原が伸びるかなーと思ってたんですが、まだまだ松永の悪名は強いみたいです。
反射的にクリックされないよう松永を選択肢の最後にしたんですが、大して効果なかったかも(笑)

長逸を選択されたという方から、説得力ある回答をいただきました。
>>
分裂の発端が将軍家対策をめぐる政権内の意見の相違(襲撃メンバーvs久秀)
これが実権を有する長逸と久…[全文を見る]

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砂村はフロイス『日本史』では「砂の寺内」と呼ばれ、この地で洗礼を受けた老人が以前異教徒であった頃から身に付けていた数珠を手に「南無阿弥陀仏」と唱えたことが記されていることから、元は真宗寺内町であったと考えられています。

こちらの光円寺は浄土真宗ですが、天正4年の創建だそうです。その隣には本行寺がありましたが、明治時代に合祀されたとのこと。
天正4年だとすると、砂には真宗寺院と結城氏が建てたという教会が同居していたことになりますね。

東町の通りを突き当たったところにあるのが法華宗の妙法寺。

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で、街道沿いに進むと砂地区があります。想像していたよりも近かったです。
砂は永禄6年に父とともにいち早く洗礼を受けた結城アンタン左衛門尉が邸宅を構えていた場所で、翌年にはこの地に教会が建てられたと伝えられます。

この地図の10のところで二股に分かれて11が東町、12が西町。確認し忘れてましたが、東西間の点線で書かれている部分は水路になってるそうです。


道標はもう字がうっすらになってますが「右 河内街道」かな?(どちらも河内街道です)
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先程の外側の土塁跡らしきところを奥からるとこんな感じ。石が散乱してるのもよく分かりませんが、ここが境目っぽい。

旧砂村方面へと延びる街道

この道沿い左手の斜面の上が大正寺になります。地名として残っている「見性寺」は室町時代の廃寺だそうで、大正寺に残る市内最古とされる聖観音像はここから伝わったと言われているようです。
例の古図で見ると二ノ丸?北側の土塁になるんでしょうか。

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一巡目読了。篠原長房死後の四国情勢はあまり把握できておらず、三好康長と十河存保の関係がよく分かってなかったんですが、康長が信長に重用されだした頃から敵対関係にあったということでやっと流れが掴めてきた感じ。
でも、織田と三好と毛利と長宗我部、それぞれ個別に関係の変化を追わないと難しい。
読んでる時は色々と感想もあったんですが、一旦忘れて今は『在京大名細川京兆家の政治史的研究』の方に集中しようと思います。

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もう2月ですか。フォトライフ無料ユーザーの制限がドーンと上がってから、月末にアワワなるたけアップロードしなきゃアワワってならなくなり、結果あまり容量を使わなくなってる気がしないでもない…

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真田丸
いやー、今回は草刈昌幸の魅力炸裂でしたわ。内野家康も良かったです。アナ雪への態度はちょっとどうかと思いましたが…。(多分あれはあれで次回への伏線なのかもしれませんが)
昌幸さん廊下でアナ雪に挨拶してたけど、あれが今生の別れになろうとは…という感じ。
矢沢頼綱も出てきましたね。なんかちょっと寂しそうな感じでしたが、真田一族の長老として終盤まで登場してくれるはずです。信繁からするとおじいちゃんの弟なので…大叔父に当たる人。
本能寺の変は今までの大河と比べるとびっくりするくらいアッサリした描写でしたが、真田らしさを見せるには、この展…[全文を見る]

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岡山城と側にある新池の場所が、古図当時と現在のイラスト地図で違うと思ったら、イラスト地図は上が真北じゃなかった。
古図の方は左側に「西」と書いているので、上が真北だと思います。GoogleMapsで見ても新池は真北にありますね。
古図には「大池」と書いてあるように見えますが、地図のスケール感からすると当時は今の新池より大きかったのかも?

回転すると、飯盛山との位置関係はこんな感じ。

旧砂村へと向かう途中、岡山の北西角あたりからの眺め。地図では遠そうに見えますが、目で見ると案外近く感じます。左手前の木は岡山の麓、右奥が飯盛山の北端です。今の…[全文を見る]

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リンクが見えない

これです

なんとなく面影を残しているような…?

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神戸新聞NEXT|西播|佐用の山城 利神城跡の調査報告会、2月開催
http://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/201601/0008759684.shtml
>>
14世紀前半に山城として築かれ、1600年ごろ本格的に整備された利神城跡(兵庫県佐用町平福)の調査が進んでいる。国の史跡指定に向けて昨年夏に町が設置した調査委員会による報告と、城の魅力を語り合うトークショーも交えた調査報告会が2月13日、同町佐用のさよう文化情報センターで開かれる。
…中略…
報告会では、県立考古博物館の山上雅弘学芸員が「慶長期“築城ブーム”と利神城」と題し、戦のための城作りや支城として…[全文を見る]

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ここ岡山は、河内キリシタンの拠点としても知られています。
永禄6年、飯盛山城を畿内の政庁としていた三好長慶は城下での布教を許可、これに反対する松永久秀は結城忠正、清原枝賢、高山飛騨守(右近の父)らを派遣して修道士ロレンソに宗論を挑ませますが、彼らは逆に感化されてしまい、結城忠正は息子のアンタン左衛門尉と共にいち早く洗礼を受けることになりました。
翌年には飯盛山城において三好麾下の河内の城主たちが洗礼を受けますが、忠正の甥にあたるジョルジ弥平次は特に熱心な信者となります。
天正年間、ジョルジ弥平次は甥にあたる岡山城主の結城ジョアンと…[全文を見る]