「ダイヤブロック」が大好きで、一人遊びはほぼブロックという日々が結構長く続いた。
英国からの帰国子女だった友人がこれみよがしに薦めてきたバタ臭い「レゴブロック」には全然興味がわかなかった。
それというのも、ダイヤブロックは「おうち」を作るためのキットが豊富にあったから。
(レゴにもあったかもしれないが)
しかも見本パンフレットにあるような、三角屋根のメルヘンチックなお家は絶対作らなかった。
その外観は確かに家の体裁が整っているけれど、内部はほぼ空洞。しかも居住面積が狭い。それが許せなかった。
もちろん写真と同じものを作るなんてのも嫌…[全文を見る]
月に1回だけ日曜日のおやつは姉が買ってくれるアイスクリームだった。
姉が買ってくるのはいつも「宝石箱」(120えん)で、自分はバニラブルー(60えん)を買ってもらっていた。
超「宝石箱食べたい(´・ω・`) 」
姉「もう少しおとなになったらね!」
宝石箱は大人のアイスだと思っていた。
雪が解け、ようやく春の兆しを感じられる頃になると、家族みんなで山菜を採りに山に出かけた。
目指すは野生の「たらの芽」だった。
クルマで30分くらい走った山の中に、うちだけの秘密のポイントがあるのだ。
誰も知らない秘密の場所だなんて、ちょっとカッコよくて、ちょっと誇らしかった。
たらの木には、たくさんの刺があって危ないので、採取するのは大人の役目。
子供だった自分は、祖父と父の手際の良さやカマ捌きに見とれながら、採れたてのたらの芽をかごに入れる係。
どんどん集められる小さなたらの芽を、宝物のように大切に扱った。
もちろん帰ってからすぐ…[全文を見る]
夏休み直前に学校で配られる夏休み生活表の、「1日のスケジュールを考えて書きましょう」
みたいなのが大好きだった。
朝は◯時に起きて…ラジオ体操に行って…、先生に見せることを考えて午前中に宿題を済まることにしておいて、
それでもやっぱり昼からは自由な遊び時間だよなー…とか、すっごいワクワクした。
気がつけば、絶対にその通りに生活するのが無理な超過密スケジュールになっていたりしたけど、
それを友達とワイワイ見せ合うのも楽しかった。
小学生の頃の夏休みは、まさに夢のボーナスステージ。
父も母も、ほんとうによく遊んでくれた。野球やスキーなどの外遊びはもちろん、
夕食後などのちょっとした時間に、部屋の中でできるささやかな遊びもいっぱい教えてくれた。
瓶の蓋を使ったおはじき、あやとり、トランプ、花札、オセロに囲碁将棋、麻雀。
しかも、いつも「本気」で遊んでくれた。
仕事も忙しかったかもしれないけど、とにかくじっくりと真剣に遊んでくれた。
子どもながらにも、適当にあしらわれているのか、そうでないのかぐらいは分かる。
大人と真剣に遊ぶことって、めちゃくちゃ楽しかった。毎回鼻血が出そうなほど興奮してた。
その楽しさがわかっているから、大人になった自分も、甥や姪と本当に真剣になって遊んでやる。
相手が子どもでも、手は抜かない。鼻血が出るまでじっくり興奮させてやる。
今になってわかる。遊びとは、人生をちょっと愉快にするスパイスだ。
その味をしっかりと教えていきたい。
父のアトリエには、いつもタバコと油絵の具の匂いが立ち込めていた。
そして父はいつも難しい顔で巨大なキャンバスに立ち向かい、一心不乱にロープの絡まりを描いていた。
くしゃくしゃに握りつぶされたマイルドセブンのケースが床のあちこちに散らばっていて、
それを集めてはゴミ箱に捨てるのが、幼かった自分のできる唯一のお手伝いだった。
「タバコっておいしいの?」と聞くと、
帰ってくる答えは、決まって「大人になると分かる」という一言だけだった。
そうしてマイルドセブンをふかしながら再び絵に向かう父の背中が好きだった。
一番近くにいて、一番格好良かった大人だった。
小学校に上がるよりも前の頃、近所にダイエーができることになった。
しかも噂では、最近CMでもよく見かける「まくどなるど」がテナントに入るらしいとのこと。
あの「はんばーがー」が食べられるんだ!と大喜びした。
そして開店当日。新しいもの好きの爺ちゃんと一緒に行列に並び、オープンと同時に突入。
もちろん目指すは「まくどなるど」だ。
でも、そこにあったのは「どむどむ」だった。
「どむどむのもおいしいよね」と言うと、爺ちゃんも「そうだな」と言った。
どむどむのお姉さんも、目一杯のスマイルをくれた。
さすがに炊飯器は一般家庭に普及しきっていた昭和時代終盤だったけど、
うちの母は毎日文化鍋でお米を炊いていた。
夕方、台所からほのかに漂ってくる甘い匂いと、小さくカタカタと鳴る鍋の蓋の音がとても心地よかった。
当時は味が良くないと言われていた北海道産米でも、やっぱり炊きたては本当に美味しかった。
底に張り付くパリパリのおこげも楽しみの一つ。姉と争ってつまみ食いしてた。
いつも炊きたての熱々のゴハンを食べられたのは、今思い返してみるととても幸せなことだったと思う。
母は仕事も忙しかったはずなのに、料理も手は抜かなかったことには頭がさがる思いでいっぱい。
そんな母も、今は「圧力極上炊き黒厚鉄釜ジャー」がお気に入りです。
家族旅行のちょっと切ない思い出。
ディズニーランドがオープンする前の話、小学校一年生の夏休みのこと。
家族揃って初めて東京へ。目指すは上野動物園のパンダだった。
圧倒的な存在感の巨大ビル群。地元のお祭りでも見たことのないほど、ひしめき合う人々の群れ。
これが大都会なんだ、東京なんだと、心踊らせつつ動物園に着くと「水曜日はパンダがお休みです」の表示。
ベソをかく自分を、両親も姉も慰めてくれて、明日行こうね、明日見られるらね、ということで別の場所へ観光に。
でも、その日の夜にあろうことか高熱を出してしまった。すぐにホテル近くの病院で診察…[全文を見る]
小学生の頃、「富士山に登ってみたいか?」と唐突に父親に聞かれて、「うん」と無邪気に答えたら、
そのあとすぐに本当に連れて行かれた。なんだか勢いで登頂に成功した。
芸術家(油彩)だった父親の教育方針で、小学校では「絵の具セット」を使わせてもらえなかった。
空き缶を3つ針金で束ねた父手作り筆洗いと、どこのメーカーかよくわからない怪しい水彩絵の具。変な形のパレット。
そして筆は、父曰く「これ一本でなんでも描ける」という竹軸の面相筆一本のみ。
金色銀色の入った「ぺんてる」の絵の具や、プラスチックの筆洗い、大小の絵筆が揃っている友達が羨ましかった。
下書きも鉛筆禁止で、家にあったコンテを持参。さすがにパンで線を消せとは言われなかったけれど。
友達と違うのが嫌だった反面、ちょっとプロっぽくてカッチョいいとも思っていた。絵は下手だった。
コーラは絶対飲んじゃダメと言われていた。
唯一自動販売機で買ってもらえたのは、いつも果汁入り無炭酸のHI-C。お母さん安心の超無難チョイス。
だから、遊園地や動物園なんかの行楽地で、コーラ片手に楽しそうにはしゃぐ子が羨ましくて仕方なかった。
HI-C如きでは味わうことの到底できないであろう、炭酸の弾ける刺激。果汁とはまた違う香りと琥珀色の液体。
まさにコーラは、自分にとって手の届かない大人のもの、もしくは「ワル」の飲み物だった。
その後、駄菓子屋で買ったコーラ飴を水に溶かして、ドンパッチを食べながら飲むという再現方法を開発した。
「暮しの手帖」の熱心な読者だった小学生の頃。
特に、家電製品の商品テストの記事が大好きだった。
あくまで客観的かつ厳格な基準の性能比較、膨大な時間をかけた地道な耐久試験、
そしてそれらから得られた様々なデータに基づく的確な批評など、一切の商業色を排したガチのテスト。
家にあったバックナンバーを何十冊もあさって、鼻血が出そうなほど興奮して読んでた。
ナショナル・東芝などの大手電機メーカーの新製品を、「こんな馬鹿げた商品」だの「愚かな機能」だの、
バッサリと容赦なく扱き下ろすのも痛快。自分にとっては、どんなマンガよりも面白かった。
理解してくれる友達は一人もいなかった。
漢字の家庭学習で、ノートにびっしり麻雀の役の名前を書いて出したことがある。
門前清自摸和 飜牌 平和 断么九 三色同順 一気通貫 ・・とりあえず一飜役から役満まで全て網羅した。
なぜか先生に褒められた。単に麻雀をよく知らなかったのか、平和という単語があったからかどっちか。
ケガ人になりたかった。
特に骨折とかでギプスで固定して腕を吊ったり、包帯をぐるぐる巻きにしたりするのが憧れだった。
白い画用紙を包帯に見立てて切って、体にセロテープで巻きつけて、
「ぅ・・つ・・・・ぁい・・・っ!」と、痛がるケガ人の真似をしてた。
大人になってから本当に骨折した。
数字の並びにものすごく興味を示して、とにかく自作のカレンダーを作りまくっていた。
1980年(当時)なのに1999年くらいまでの超未来カレンダーを書き上げたときは
さすがに親が心配した。
なぜか電線とか鉄塔とかアンテナが大好きで、
画用紙を何枚も繋ぎあわせて、発電所から家庭までの送電経路を描いていた。
いまもちょっと好き。