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歓びの野は死の色すのことを語る

白のエリス姫

「アンリエット! アンリエット、いないのか?」
 オルフェ七世が青銅製の隠し扉を押し開けて目にしたのは、名前をよんだ当人ではなく、華奢な少年の姿だった。少年が闖入者に声をあげなかったのは驚愕のせいに違いなく、片手で覆えるほどの小さな顔は紙のように白くなっていた。
「し、失礼! まさか他にひとがいると思わなかったもので……」
 謝罪を口にしながら、当然のことオルフェは気がついた。もしや、いま彼が目の前にしている人物は、あの神秘の王国「鳥首国」から派遣された弱冠十三歳の「大使」ではないのかと。そして、少年のほうも同じく…[全文を見る]

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歓びの野は死の色すのことを語る

《夜》

「ずいぶん遠慮がちに降る雨だこと……」 
 つぶやきが硝子窓にあたり、白く曇りました。そしてまた、そこにうつっていた橘卿とよばれる数え十四の少年の顔も、記憶の彼方へと追いやられたようにぼやけます。その後ろの、わたしが憧れてやまなかった『白のエリス姫』のお姿さえも、一瞬だけ、見えなくなりました。
 ――おまえは女人なのだから、万が一のことがあっても、名を惜しむことはない。何もかも忘れて幸せになりなさい――
 兄は、とつくにへ旅立つわたしへとそういいました。
 わたしの兄は、鳥首国の大君です。
 いえ、大君でした。今ほど聞いたばか…[全文を見る]

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歓びの野は死の色すのことを語る

《夜》

 その来訪を知らされたのは、昨日のことだ。
 次期葬祭長たるこの僕、オルフェ七世にこんな間際まで知らせがないのは何かの陰謀かと声をあげて教団本部を糾弾すべきだったように思う。
 《夜》を目前に、古神殿に引きこもったままの僕には、世間の情報はなにも入ってこない。集中のため、外出はおろか連載小説の続きが気になって仕方がない新聞でさえ差し押さえられているのだから!
 そうやって心の底から腹をたてていたはずなのに、僕ときたらアンリエットのあのすまし顔になにひとつ言い返すことができなかっただけでなく、多忙の公爵――つまり僕の双子の…[全文を見る]

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歓びの野は死の色すのことを語る

《夜》

 影なきものに、かげあれ
 理なきものに、ことわりあれ
 法なきものに、のりあれ
 時なきものに、ときあれ
 言葉なきものに、ことばあれ

   わが半身(かたみ)、光なきものよ
     我は往く、われはいく
       汝は……

        ※最終行「汝は」以降判読不能
        《太陽神エリオの詞・顕現詩2巻22》より抜粋
        帝都学士院図書館所蔵 
        カレルジ・コデックス 1124

 カレルジ・コデックス――帝都学士院の膨大な所蔵品のなかで質・量ともに充実し、ひときわ異彩を放つのがこ…[全文を見る]

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歓びの野は死の色すのことを語る

《夜》

「野蛮でけっこう。この世の秘密が其処にあると知りながら、手を出さぬものの気持ちが私にはわからない。それにより、救われる者もあるだろうに。なにも、『騎士』の肉体を本当に切り刻めと申し上げているわけではない。たしかに眠っているものの肉体を勝手にするのはいかにも卑怯なうえに、彼は世にも名高いヴジョー伯爵であらせられる。しかし、彼だとて、このまま時の終わりまで眠っていていいとお思いなわけもないのでは? それを、手も触れないとはおかしなことだと常識でものを申しているのです」
「なんといわれましょうと、遺言に反する時点でわれわれ…[全文を見る]

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歓びの野は死の色すのことを語る

《夜》

「アレクサンドル一世猊下、だいたいあなた様はわがまますぎます!」
「我が儘とはなんだ、ワガママとはっ」
「僕が呼び出しもしないのにこうやって御出でになるからですよ。大役を控えた僕を慮って少しは休ませてくださってもいいじゃありませんか」 
「オルフェ七世よ、貴様がオレを呼び出さずに、このオレ様がのこのこやってくると思うのか?」
「え……じゃあ、僕が、お呼び出し申し上げているってことで?」
「当たり前だ。オレは死人だぞ」
「すみません。僕はてっきり、その……僕のほうがあなた様に呼び出されているのかと……」
「ほう、その秘事は識ってい…[全文を見る]

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歓びの野は死の色すのことを語る

《夜》

 ったく、どいつもこいつもくだくだしい繰言ばっかでちっとも《夜》について語れていない。しかもアンリエットをのぞいてあいつら自分の名前さえ喋っていない。不親切極まりないというか、なんというか、いいかげんさらせと怒鳴りつけてやるところだが、まあ、オレも疾うに「死者」となった身分だからな。おとなしく、《夜》の登場人物らしく振る舞ってやるよ。
 昔むかし、といってもオレ様の生きていた時代から百五十年ほど前のこと。
 このエリゼ公国にエリス姫とよばれるたいそう美しいお姫様がいた。彼女は初恋のひとであるヴジョー伯爵と相思相愛なが…[全文を見る]

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《夜》

 わたくしの部屋には、美術品の愛好者・蒐集者であれば全財産をなげうっても惜しくないと思うにちがいない、三百年ほど前の名画があります。
 『白のエリス姫』。
 帝都の黄金宮殿から帰国してのち一生涯、黒衣に身をつつんだとされるこの女性のきわめて珍しい純白の半身像です。洞窟のような不可思議な背景と、陰影にとんでなお光暈をまとったお姿は女神そのひとと目されるもので、すこし凝った美術書などでは『顕現』ともよばれています。
 また、この絵はいっぱんに結婚の儀式にのぞんでのもと思われていますが、歴史的事実においても服飾史的にもそれは…[全文を見る]

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《夜》

 僕がエリゼ公爵になったのは、父が流行病で倒れてすぐのことだった。幼い頃には精神疾患と看做され強制的に他国で「治療」されたであろう異性装癖は、大教母の宣旨のおかげで了承され、今では臣民の娯楽と化している体もある。
 自ら戦車を駆って大競技場を沸かした古代帝国皇帝も斯く在りやとまで言われると、いい加減に目を覚ましたほうがいいと他人事ならず思うが、それが我が臣民であるということを何よりもまず忘れてはならない。
 エリゼ公国が性的少数者への差別を撤廃しえたのは《死の女神》教団が不断の努力をつづけた結果で、ある意味では奇跡の…[全文を見る]

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歓びの野は死の色すのことを語る

《夜》

『そろそろ刻限であると、時が告げていた。
 帝国皇帝たるその男に誓いを遂行しろと迫るのは、血の戒めに他ならない。
 皇帝アウレリウスは《夜》の訪れに金色の双眸をとじて闇の最奥に呼びかけた』

 今現在、《夜》を記した書物でもっとも評価されているのは、このアレクサンドル・デリーゼの著作『歓びの野は死の色す』だと言われている。
 自身、葬祭長であった人間の処女作。
 手許にあるのは、さいきん出版された豪華挿絵入り復刻版。帝都学士院(帝国がなくなったというのにこの名前は廃れない)で修行を積んだ銅版画家畢生の大作に彩られた書物は…[全文を見る]

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歓びの野は死の色すのことを語る

伝説

 もう四年ほど前のあたしの誕生日に、サルヴァトーレが帝都の一区画をうつした地図をくれた。それは、鳥にでもならないと見ることができないくらい美しく、正確無比に完璧で、まるで魔法の手妻ようだった。
 なにしろこの地上においてあんな精巧なものが作られたことは過去一度たりともないんだから。
 もちろんトトはあの涼しい顔で、実は魔法ですからと微笑んだ。自分で考えろという謎かけだと知ったあたしは、すぐさま同じように別の地区の地図を作り返した。
 足で測った距離と紙の上の縮尺をそろえるのは半端じゃない労力がいる。やり方さえ知ってしまえ…[全文を見る]

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伝説

 そのときぼくが考えていたのは、この国の将来のことでもましてやエリスの身の安全についてでもなく、ぼくの隣に腰かけた若い娘のつけている香水のことだった。
 小国の次期領主として恥知らずであってはならないと自分を戒めなければ、その花の名前を尋ねていたことだろう。ぼくの思う南の花の薫りは、まさに彼女のまとう香のように甘くやわらかく、女性的に優美でいながら輝く太陽を浴びて健やかで、白く清楚な花の姿を思わせた。
「殿下はこの地下通路をどのくらい歩かれたのですか?」
「その地図をかけるくらいには、歩きました。ぼくは階段の上り下りはき…[全文を見る]

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伝説

 《歓びの島》――それは、西の海に浮かぶ、不死の神々のいまする処。ひとの身が辿り着くことの許されぬ絶海の孤島。季節を問わず花咲き乱れ鳥が鳴く、麗しき「伝説の島」。
 しかしながらトトがたんに妄想を抱いているとも思えなかった。何故なら月の君が長の年月、巨費を注ぎこみ、その「島」を探していたことを知っているからだ。
 むろん、帝都では月の君の手配した航海は、新たな交易地を求めての果敢なる冒険ととらえられていた。この海のはるか彼方に、この大陸と同じくらい広い大地があり、そこに大勢の人間たちが住んでいないとは言い切れない。
「未知…[全文を見る]

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伝説

 ――女の人生は花のようなものでございます――
 おれがサルヴァトーレの身体のしたで目を閉じて思い出したのは、その言葉だった。
 何にも誰にも貶められずに生きていくことが、女には何故これほど困難なのか。
 それが、わからない。
「エリス、なぜ泣く」
 サルヴァトーレの声が頬に触れた。いや、目尻をつたう涙を舐めとられてはじめて、自分が泣いていたのだと知った。
「そんなふうに、声を殺して泣くな」
 男の手に握られていた刃物が固い地面に落ち、かわってその手で額にかかる髪をかきやられた。瞼のうえに唇がふれ、眉を指先がなぞっていた。
 自…[全文を見る]

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14

「ええ。それはわかります。けど、ひとつ俺から提案があるんですが聞く耳はありますか?」
 アンリが皮肉交じりに笑った。
「聞かないとは思ってもいないくせによく言うよ」
「俺は貴族を信用してないんでね」
「そうやって、ひと括りにされちゃたまらないよ。ルネさまを、古神殿に移せというのかな?」
「ええ。あちらのほうがいい施術者がいる。安全確認はともかく、神官様はお姫様にお会いしたいでしょう?」
「エリス姫は行方不明なのだよ」
 ジャンの濃い眉がぐっと真ん中に寄せられた。
「それ、俺を担いでるんじゃないですよね? 行方不明って、今朝ま…[全文を見る]

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13

 エミールの姿が見えなくなって、ジャンがその場にくずおれるように腰を落とし、大きな息を吐いた。全身から緊張が抜けきったように見えたがすぐに我に返り、扉の前に落ちている手紙を拾い、手巾をとりだし慎重な手つきで血痕を拭ってから先ほどまでエミールの着ていた長衣にくるんだ。
 彼はトマの遺骸の前へとすすみ、生成りの装束を脇によけ、身体をまっすぐにして祈りの言葉をつぶやいた。続いてこわごわと顔を顰めながらもその身体に手をかけて、隠しや衣服の隙間になんらかの証拠がないか探りはじめた。無駄とはわかっていたが、確かめずにはいられなかっ…[全文を見る]

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12

「でも、僕を逃がしたことがわかれば」
「神官様がご存命のかぎり、ニコラさんもアンリさんも俺の助けがいる。お前を逃がしたくらいでふたりは俺を殺したりはしないだろうし、彼らにはそうしようとする奴らを止めるだけの力はある。それに、もしそうなる運命だとしても、俺はこの街の数少ない太陽神の信者のために神殿の火を守りたい」
「ジャン……」
 再び泣き出しそうな顔をしたエミールの肩を、ジャンが邪険なほどの勢いで押した。
「いいから早く行け」
「ジャン、行けない」
「お前、行けないってなんだよ。せっかく俺が助けてやるっていってんだから、逃げ…[全文を見る]

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11

 私は、自分とアンリの姿を目にしてから、呆然と立ち尽くすジャンを見た。ジャンは倒れ伏して動かないトマの身体の前で膝をついたエミールと我々を交互に見て、何がおきたか解き明かそうとして濃い眉をしかめた。彼が手紙に目を落としたそのとき、アンリが顔をあげ、ジャンを一喝した。 
「ジャン、死んだ男には用はない。縫合はできるな?」
「ああ……」
「ならば来い」
 アンリに横抱きにされた肉体は部屋の向こうに消えたが、私はそこに立っていた。少なくとも、私の見ていたのはアンリでもジャンでもなく、エミールと、トマだった。
 エミールはトマのうつ…[全文を見る]

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10

「急所は外してあります。あとは、あなたの神にお祈りください」
 私の胸で、トマが抑揚のない声で囁いた。心臓や肝臓を狙われなかったことに、驚愕した。腹を刺されただけならうまくすれば数日は生きられるはずだ。
 神殿騎士の身分をあらわす黒衣。三ケ月型の短剣。月の神エリュン。そして、新しいカレルジ銀行頭取からの手紙。すべての辻褄が合わず、私のなかに疑念が生じた。
 いったい誰が……?
 トマは私を抱擁するように両腕をひろげて短剣の柄から手をはなした。その無防備なほどの態度に、彼が、私に斬り殺されることを望んでいると知った。私は身体…[全文を見る]

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歓びの野は死の色すのことを語る


 息をのんだ私に、アンリが笑った。
「愛する女性をお守りするのが騎士でありましょう? あなたが臣従礼を誓うのは、あの麗しい女神の娘なのですから、仕方ないですよ。
 お忘れではありませんよね? このエリゼ公国は女神の御子によって治められ、あなたは偉大な皇帝ユスタス陛下からその御子をお守りするよう仰せつかったヴジョー伯爵の末裔なのです。
 あなたは、この国を守護するものです。この先どんなことがあろうと、その役目をおりてはなりません」
 アンリは私がしかと頷いたのをたしかめ、いつもの調子で続けた。
「とは申しましても、エリス姫救出…[全文を見る]