画像解析できるマン
http://usagee.co.jp/computer-vision/
遊んでみた
おっ
やるな!
袋入りは難しいか
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この二条城天守を巡る話で、文章の記録、遺跡調査、設計図、それに絵画資料を複合的に組み合わせることで、その舞台裏が見えてくるという面白さがよく伝わってきました。
河内将芳氏も、上杉本洛中洛外図屏風を使って戦国時代の京都を訪ね歩きながら諸々を解説するというコンセプトの『歴史の旅 戦国時代の京都を歩く』という本を書かれてますし、これまで美術史側からしか活用されていなかった物が歴史研究にも活用されるケースが増えると面白いと思います。
戦国期の城を絵に残してくれる人が地方にもいれば良かったんですが…まあ、それどころじゃなかったんでしょうか。
http://h.hatena.ne.jp/dai6tenmaow/81800833178445524
( ´-`)。o 0(…ぬらめきメモリアル…)
そういえばタイミング良く、千田先生も書かれている『城から見た信長』(ナカニシヤ出版)という本が出てました。
というか「奈良大ブックレット」だし、『日蓮宗と戦国京都』の河内将芳氏も奈良大で教授されてるらしく、「京の城と信長-なぜ信長は京都に城を構えなかったのか-」という題で書かれているようです。
1000円と買いやすい値段なのでこれも候補かな。
http://www.nakanishiya.co.jp/book/b196290.html
著者プロフィール見たら、千田先生は奈良出身ではなく「愛知県豊田市生まれ」ですね。木津の鹿背山城の話と奈良大を卒業された話がごっちゃになって勘違いしてたようです…。
続き
2.京都の戦国の城を読む
・畝状空堀群から城の発達を考える
竪堀を横に連ねたものが畝状空堀群。戦国期に大流行して、東北から鹿児島まで全国的に見られる。単純な竪堀群から、竪堀群の上部を横堀で繋げて、更に上部は高い段差を築くように進化した。
福岡県の長野城は全方位にものすごい数の竪堀が伸びている。(検索してみたら、竪堀の数では日本一と言われてる城らしい)
・世界の畝状空堀群
日本だけではなくドイツの城でも同じことをやっている。Birg beiのKleinhohenkirchenという11世紀の城。(先生はドイツ考古学研究所に留学していてヨーロッパの城にも詳し…[全文を見る]
高国は紺屋の瓶に隠れてるところを発見され切腹させられるという、面白い最期で有名になってますが、京兆家の嫡子として生まれて父の勝元から全てを受け継いだ政元と、野州家から家督を勝ち取った高国とではスタート地点が違うし、そこから将軍をすげ替えて幕政を掌握するところまでいった手腕は相当なものだろうと思います。
六角定頼も近江守護として在国しつつ、義晴の後見人として高国の失脚後も引き続き幕政に参加しているのが興味深いです。
信長以前の「天下人」の幕府への関わり方については、三好長慶の他に六角定頼も含めて考えると面白そうです。
昨日は神戸まつり行ったついでに次に買う本を物色しました。
今のところ確実なのは、河内将芳『日蓮宗と戦国京都』(淡交社)1800円、木下浩良『戦国武将と高野山奥之院』(朱鷺書房)2500円の2冊かな。
山田邦明『戦国のコミュニケーション』(吉川弘文館)2300円も欲しいけど…予算が…。
あと、浜口誠至『在京大名 細川京兆家の政治史的研究』(思文閣出版)をざざっと読んできました。
興味深いのが細川高国の評価ですが、高国は将軍義稙との権力闘争を制して、義晴前期に幕府儀礼を主導することで新将軍の後見人として地位確立を図ったとして、謀略による将軍廃立、畠山…[全文を見る]
手元のメモから話の内容を紹介します。(聞き違いとか解釈のおかしい部分はあるかも)
1.描かれた京都の城-絵画資料と城郭遺跡
・「洛中洛外図屏風」-足利将軍邸と武士の館
歴博甲本洛中洛外図から、将軍義晴の「柳之御所」には礼門と通用門が描かれている。身分の高い人の屋敷には必ず二つの門があった。
鬼門にあたる北東の角には鎮守社が描かれている。
細川高国の管領邸と右馬頭(典厩)邸が並んで描かれている。(高国政権期なら典厩家当主は従弟の尹賢?)
偉い人の邸宅の主殿には扉がたくさんあって、身分によって通る扉が決まっていたが、上杉本の花の御所は裏…[全文を見る]
もちろん千田嘉博先生の講演「京都の城に歴史を読む」も聞いてきました。先生のお話は予想以上に面白かったです。
渡された資料がこの目次しかなかったので、うぉぅって思いましたが、スライドを96枚も用意されていて、史跡やモノに関連する画像(洛中洛外図屏風、発掘調査の現場、復元された史跡、自筆の縄張図、それに米軍の航空写真まで!)を次々と見せながらの話の組み立てとか、10秒おきにジョークを入れてくる感じとか、話術も尋常ではなかったです。
奈良出身の先生は少年時代から城郭マニアで、会場近くにある鹿背山城跡に登って畝状空堀群を発見して新聞に載っ…[全文を見る]
企画展「山城の中世城館を掘る」見てきました。
京都府教育委員会の発掘調査から山城国内の26の中世城館跡をピックアップして紹介された今回の展示。
第1章「中世城館の登場」、第2章「平地城館と集落」、第3章「中世の山城と戦い」、第4章「城郭化する寺院」、第5章「天下人の城」と、時代ごとの移り変わりを反映した出土品が展示されていました。
佐山遺跡、下海印寺遺跡、久我東町遺跡、石見城跡、大藪城跡、上津屋遺跡、今里城跡、物集女城跡、開田城跡、上植野城跡、羽束師菱川城跡、瓶原城跡、小田垣内遺跡、田辺城跡、鹿背山城跡、笠置城跡、教王護国寺、六波羅蜜…[全文を見る]
河野氏のことを調べると、通昭に限らず、一族や遺臣たちの無念は相当強かったことが窺えますね。
道後にある義安寺には、天正13年の湯築城降伏に際して二君に仕えないことを誓って自刃したとの伝承があるそうです。
…[全文を見る]
山城郷土資料館の企画展「山城の中世城館を掘る」
http://sengokudama.jugem.jp/?eid=4003
展示は6月28日までやってますが、明日、千田嘉博氏の講演あるっていまさらメモ
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【日時】
平成27年5月16日(土)午後2時~4時
【会場】
相楽会館(木津川市木津上戸15)
【講師】
奈良大学 学長 千田 嘉博 氏
【演題】
「京都の城に歴史を読む」
【料金】
聴講料は無料です。
【申し込み】
事前申し込みは必要ありません。
【定員】
先着順 200名
【会場までのアクセス】
●JR:「木津駅」下車東出口徒歩約5分
●車 :国道24号木津交差点から約3分
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企画展のPDF
http://www.kyoto-be.ne.jp/yamasiro-m/H27-koko-chirashi.pdf
>山科本願寺跡(京都市)山科本願寺の戦い(天文法華の乱)の被災資料
むむむ
広島県立文書館の「安芸国広島浅野家家中 細家文書 仮目録」のPDFもヒットしました。
http://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/25356.pdf
免許状に登場する人物名を見ると、どうも「築山斎依通」以降のみのようです。
また検索してみたところ、徳島の貫心流では、宍戸司箭家俊-河野大内蔵道昭-筑山文五郎依通-溝口甚五右衛門鉄柱無端-玉置常左衛門近正…という系譜が伝えられているようです。
やはり「築山依通」以前の系譜が怪しい感じがしますね…。
もし宍戸司箭と河野通昭に繋がる開祖伝説が人為的に作成されたとすると、この人物の手によるものでしょうか。
貫心流については森本邦生という武道家の方が詳しく研究されているとのことで…
http://kanoukan.web.fc2.com/kancho/index.html
2007年には安芸高田市歴史民俗博物館で「宍戸司箭の武術 ─司箭流の薙刀と貫心流の剣術─」と題した講演もされています。
こちらのブログの方のようですね。以前から貫心流や宍戸司箭について検索したらよくヒットしていましたが、そういうわけだったのか。
無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)
http://kanoukan.blog78.fc2.com/
貫心流が広島藩に伝わるまでの概要は、こちらの記事にまとめてあります。
Wikipediaはグルジアのままだったけど、「グルジア人の一覧」にザザの名があった。(項目はないのに)
( ´-`)。o 0(…グルジアがジョージアになった…ということはグロム・ザザはジョージア出身ということに…?)
看板とは限らないし、顔に見えるというか顔描いてるし、ゆるキャラと呼ぶほどでもない、みたいなやつ。
ゆるキャラ未満が近いかもしれないけど。
何にでも顔を描く
看板部の亜種みたいなキーワードで以前から欲しかったので立ててみたけど、意外とその時でないとネタが見つからない…。
秀吉襲撃計画「八幡藪事件」については、三原市八幡町に関連史跡があるようです。
http://www7.enjoy.ne.jp/~takanawa986/yukarinoti/kounosiyukarinoti.html
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河野一党の墓 (三原市八幡町)
墓は八幡町野串の街道の上にある。宝篋印塔一基を中心に大小三十の群墓で宝篋印塔、五輪塔はそれぞれ整った姿形である。文禄年間朝鮮出兵のため九州に向かう秀吉が、御調八幡宮へ戦捷祈願に参詣するところを、河野一党が襲撃する計画(八幡の藪事件)が事前に漏れて捕らえられ、一党三百人はその日のうちに処刑された。その総責任者が河野通昭、現場の指揮者は通軌であっ…[全文を見る]