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史跡巡り同好会のことを語る
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史跡巡り同好会のことを語る

御陵は、こんな急坂と階段をずんずん登っていった山の上。

こんな木立に囲まれたところ。

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そして、南朝の史跡、後村上天皇陵。



ここ、かなりの高さ。ここまで階段を登ってきたのが今日のお散歩の敗因(?)の一つとなった。

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南河内は楠木正成のお膝元。
観心寺境内にはこんなものも。



ちなみに、石碑の字は楠公自筆だそうで。

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こちらも同じく三木市にあります、別所家ゆかりの法界寺にて。

赤松家再興を果たした播磨守護・赤松政則を支え、東播磨の守護代となった別所家中興の祖・別所則治によって、延徳年間に別所家菩提寺と定められました。
三木合戦の際は自刃した長治の遺体を埋葬、慶長年間に杉原伯耆守によって諸堂再建されるとともに霊廟が建立されました。
こちらでは毎年、長治命日の4月17日に法要が行われ、三幅の三木合戦図屏風を使った「絵解き」が催されているそうです。

この「東播八郡總兵別所府君墓表」の碑は、長治公百回忌を記念して建立されたものだそうです。
失利政則敗走則…[全文を見る]

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三木市にあります、別所長治の首塚にお参りしてきました。

三木城址に近い雲龍寺の外れにある首塚。
こちらに掲示の「首塚記」によると、三木開城後、長治の首級は秀吉陣所より安土の信長の元に送られ、その後雲龍寺の七世春泰禅師により埋葬されたそうです。

三木城内にあった雲龍寺は合戦の際に焼失しましたが、後に領主となった杉原伯耆守(長房)の上訴により秀吉の寄進を受けて再建、江戸時代にも代々将軍家の御朱印状を賜り、明治時代まで檀家のない公寺だったとか。
またここで毎年1月17日、三木合戦の兵糧攻めで城内の藁まで食べたとの言い伝えにより、藁に見立ててうどんを食べる会が催されるそうです。

雲龍寺境内にある金毘羅宮の中を覗いてみるとこんな看板が…「別所公一族会総会々場」

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まだ雪が残る一乗谷朝倉氏遺跡にて


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姫路市、御着城址公園
御着城は播磨守護赤松氏の一族で、備前浦上氏や東播磨の別所氏とともに赤松氏の重臣として活躍した、小寺氏の居城です。

残念な感じのお城風の建物は、姫路市役所東出張所。

備前福岡から播磨に居を移した黒田官兵衛の祖父・重隆が小寺氏に迎えられたことから、官兵衛ゆかりの地としてPRされているようです。

官兵衛の祖父・重隆と、官兵衛の生母・明石氏を祀る廟所。1802年(享和2年)に福岡藩主黒田斉清によって再建されたものだそうです。
地元ではどちらの墓も「チクゼンサン」と呼ばれているとか。

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【倉敷市・楯築遺跡】
弥生時代の建造ではないか、とされてる遺跡です

亀石と呼ばれてる中心の石を取り囲むように

環状・飛び石状に巨石(1~2mくらいか)が地面に突き刺さってます

棺が出てるので墓であったはずなんすけど、この巨石の意味は、まだちょっと謎のようです。

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富田松山城址の続き。

本丸跡はこんな感じで山城にしては結構広く削平されてます。

城主から歓迎のお言葉が。
国秀は、浦上家当主の村宗が両細川家の乱で高国方の援軍として摂津に出兵し、主筋の赤松軍の寝返りによって敗死した(大物崩れ)後、嫡子の政宗が成人するまでの約10年間、当主を代行したという人物です。

山麓には浦上家の墓所がありました。こちらは元禄年間から現在まで続いてる家だそうですが、国秀との関係は分かりません。

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先日訪れた備前片上、富田松山城址にて。

登山道から山頂の主郭部へと向かう尾根道にて。眺望が素晴らしかったです。
写真は白くなってしまってますが、遠くには岡山ブルーラインの片上大橋が見えました。

岩盤を絶ち切って掘られたという堀切。

登山口に掲げてあった縄張り図。
典型的な中世山城なので大規模な石垣などは見られませんが、本丸の広い土塁は帯曲輪によって幾重にも囲われており、三方を海に囲まれた立地も相まって相当な堅城だったようです。

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こちらは復元町並です。
発掘された石垣や礎石をそのまま使い、出土品を元に忠実に復元したものだそうです。
自分には史跡としての魅力はあまり感じなかったのですが、資料館との共通入場券を購入済みだったので、ささっと回りました。
訪れたのはもう閉門時間の約30分前だったので人気が少なく、写真撮影はしやすかったです。

このソフトバンクのポスターがあちこちに貼ってありました。
あまりぱっとしない復元町並みも、こういうシチュエーションだとなんだか魅力的に見えてしまいますね…。

実際はこんな感じ(笑)
おばちゃんの着てるTシャツは、ちょっと欲しかった…[全文を見る]

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朝倉氏最後の当主・義景の館跡です。ソフトバンクのCMにもちょこっとだけ写ってますね。
この唐門は江戸時代に建立されたものだそうですが、その頃からすでに史跡として扱われていたんでしょうか。

館は足利義昭を招いて盛大にもてなしたところで、その敷地の広大さからも、当時の朝倉氏の繁栄ぶりが推察されます。
一乗谷朝倉氏遺跡資料館には、管領細川氏の居館を参考にしたという、この館の復元模型が展示されてました。
写真手前の庭園は、湯殿跡、諏訪館跡、南勝寺跡とともに「一乗谷朝倉氏庭園」として特別名勝に指定されていますが、先日の大雨の影響か一部が崩落…[全文を見る]

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安波賀春日神社の社殿です。
長禄合戦で守護方の堀江氏の軍勢が一乗谷に攻め寄せた際、安波賀城戸口の戦闘で社殿は焼失したものの、後に孝景によって再興、以来朝倉氏の戦勝祈願所となりました。
朝倉氏滅亡の際に再び社殿焼失、神官の吉田氏は御神体を奉じて江戸へ逃れ、更に時代を下って越前松平家七代に至って、現社殿を再建されたそうです。
その七代藩主松平吉品は、これまでの藩主にたびたび不幸が続いたこともあり、朝倉氏滅亡時に残したと伝えられる「以後越前の国主たる者には子々孫々に至るまで祟るべし」との怨み言を気にかけて、滝殿社を造営して朝倉氏を祀り…[全文を見る]

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一乗谷駅から程近いところにあり、発掘調査?復元工事?真っ最中の西山光照寺跡。
応仁の乱から遡ること8年前、堀江氏ら有力国人を味方に付けた越前守護・斯波氏と、将軍義政の信任厚い守護代・甲斐氏が越前の支配を争った長禄合戦が起こりますが、守護代方についた朝倉宗家の孝景は、守護方についた叔父で舅でもある鳥羽将景を討ち、朝倉家を掌握しました。
この西山光照寺は、将景の菩提を弔うために建てられたものと伝えられています。


寺跡には約40体の石仏が並べられているのですが、中でも印象的だったのがこの不動さんとコンガラ童子(?)
正面に陣取って絵を描いているオジサンがいたのも面白かったです。(近くに画材を積んだ車が止まってました)

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18切符今季の最終日、越前福井は一乗谷の朝倉氏遺跡を巡ってきました。
史跡エリアはとても広く、じっくり巡ると日が暮れてしまうのは確実なので、まずは逸る気持ちを抑えて一乗谷朝倉氏遺跡資料館へ。
駅周辺には観光案内所などもないため、ここで巡回用のできるだけ詳しい地図を入手しておく必要もありました。

今年は特別史跡指定40年、資料館開館30年、朝倉氏庭園特別名勝指定20年とのことで、「戦国城下町 一乗谷を歩く」と題してこれまでの調査の総まとめ的な展示をされてました。
館内には出土品が色々と展示されていましたが、中でも多数出土した将棋の駒に「酔象…[全文を見る]

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昨年の夏に同じく18きっぷで訪問した、島根県安来市広瀬町。
出雲尼子氏の居城・月山富田城のある町です。ついでに上げちゃえ。

先の投稿で触れた、山中鹿介と品川大膳(棫木狼之介)の一騎打ちの石碑です。
尼子氏寄りの軍記(雲陽軍実記)と毛利氏寄りの軍記(陰徳太平記、吉田物語)で一騎打ちの内容が違ってて、後者では鹿介は膝を切られ、秋上伊織介と二人掛りでで仕留めたことになってます。

尼子経久開基の洞光寺にある、尼子氏歴代追悼碑。
ここには清貞・経久父子の墓もあります。

洞光寺から飯梨川を挟んで、月山富田城址を望む。
飯梨川沿いの三日月公園には、とてもかっこいい騎乗の 尼子経久像 があります。(大河ドラマ「毛利元就」での緒形拳さんの姿を模したとの噂…)
寺社巡り同好会にも関連記事を投稿してます。 2008-08-14 01:56:57
出雲尼子氏の新規キーワードも作成して投稿しましたが、あれから使われてないです。(笑)

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「毛利史跡巡り」と題した、18きっぷ3泊4日野宿の史跡巡りはこれにて終了です。
最後にちょっと写真とともに振り返って。

初日の宮島、町屋通りにて。なかなか風情のある路地でした。土産物屋の並ぶ参道の1本裏にあります。
一夜明けて2日目の弥山登山は、断続的に強い雨が降ったこともあって、あまり楽しんで見て回れる状況じゃありませんでした。
他にも見所をたくさん残して下山しましたので、いずれ再訪したいです。

3日目の温泉津、沖泊の恵比寿神社。
沖泊の雰囲気も気に入ったので、またいつか、大森銀山までの銀山道も併せてじっくり見て歩きたいです。(関連記事)

[全文を見る]

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大森銀山には龍源寺間歩以外にも数多くの坑道跡があって、その数なんと500以上。それぞれに番号が振られてます。
町から一番近い新切間歩は水抜き坑だったとのことで、今でも水が流れていました。
その付近の駐輪場に自転車を置いて、龍源寺間歩まで徒歩で向かいます。

龍源寺間歩は大森銀山唯一の観光用坑道で、規模は大久保間歩に次ぐ600mの長さで、そのうち273mが公開されているとのこと。
ちょうど西本寺の山吹城城門で側を通り過ぎて行ったガイドさんの一行に追いついたので、色々と話を聞くことができました。
中はとても涼しく、ガイドさんによると坑道内の気温は1…[全文を見る]

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大森銀山続き。レンタサイクル調達後は町並み観光をひとまず終了、ここ一番の目玉で唯一常設公開されている坑道・龍源寺間歩を目指しました。
毛利氏関連史跡としては、元就を祀る豊栄神社と、大森銀山防衛網の拠点となった山吹城などがありましたが、山吹城は要害山というだけあって相当の険路、前日夜に激しい雨が降ったこともあって、登城を断念しました。


西本寺にある山吹城城門とのことですが、通りすがりのガイドさんによると、最近の研究では要害山上にあった寺の山門と見られているそうです。


豊栄神社はひどい荒れ様。
元々は洞春山長安寺という曹洞宗の寺で…[全文を見る]