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Tips:横着して自分に楽な書き方をすると、第三者には「何について」言っているのか分かりにくい文章になるよ。
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歓びの野は死の色すのことを語る

かけら

 ったく、エリスも酷なことをしてくれるよ。
 しかもそれをこのあたしに頼むんだから、始末が悪い。
 燭台をかざしたその炎のむこうに寝ているのは、小柄なあたしの倍もあるような長身の男だ。
 やっぱり、伯爵が寝ているあいだにその手なり足なりを縛っておこうかな。ああ、でも、それをするにはもう時間がたちすぎていて危険か。
 隣から運んできた燭台を小卓におき、日記をつづった羊皮紙をひろげ、あたしは先日の会話を思い返す。
「伯爵に剣を返すの?」
 あたしの問いに、エリスはうなずいた。
 この『ヴジョー伯爵拉致監禁計画』を話したとき、エ…[全文を見る]

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歓びの野は死の色すのことを語る

うずまき

――そなたの真実の母である《死の女神エリーゼ》のようになるがよい――

 おれが帝国を発つときに、皇帝陛下はそういった。それからおれの顔をしげしげと見て、これほど美しく育つなら、やはり手をつければよかったやもしれぬなと続けた。
 横で聞いていたアレクサンドラ姫がいまいましげに眉を顰め、その視線に陛下が声をたてて笑った。
 おれは陛下に、《死の女神》のようにとはどういう意味かと問うた。
 陛下は、そうさな、と首をかしげ、再びおれの顔をみてほくそえんだ。

 エリス姫、己はそなたが恐ろしい。そなたが本気で欲しいと願えば、己などす…[全文を見る]

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歓びの野は死の色すのことを語る

うずまき

 黄金宮殿にいたころ、女たちはいつも「しようがない」と口にした。
 殿方は幾人もの方を愛せるのだからと、笑っていた。
 彼女たちに、諦めることを学ぶよう諭された。
 女とは摘み取られる花のようなもので、実を結ぶために美しく着飾り、ただ相手のいうなりになるしかないと教えられた。
 おれがその言に納得できないと反論すると、貴女様はまだお若くて美しいからわからないのだと、おれの目から見て眩いほどのご婦人方は鈴を鳴らすような笑い声をたてた。故郷の田舎では見たこともないような美女たちが何故そんなふうにいうのか、そのときのおれに…[全文を見る]

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うずまき

 その日、朝からおれは機嫌が悪かった。
 ――エリス、いい子にしてれば誰かが助けてくれるなんて、そんな甘いことを考えてちゃ生きてけないよ――
 大叔母様、いや、この場合は大教母と呼ぶほうが正しかろう人物に、こっぴどく叱りつけられた夢をみたせいだ。
 大教母には、今のおれの生きかたが我慢ならないらしい。つまりは、我慢なぞする奴は愚か者だと罵られ、欲しいものは奪えというので、危うくそそのかされそうになって飛び起きた。
 その言い種が誰かに似ていると思ったら、皇帝陛下のものいいだ。
 亀の甲より年の功とはよく言ったものだ。
 お…[全文を見る]

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 エリゼ公国には山がない。
 遮るもののない空の下、緩やかな起伏を描く丘がどこまでも続き、その間を蛇行する河が流れている。この河の恵みこそが、この国の栄華の基礎となった。
 街から河岸をいくらか下ると、崖に横穴を掘って住むひとびとがいる。
 そこは光のあたらぬ住居ではあるが、慣れてしまえば気温が安定して住み心地がいい。もちろん、葡萄酒の貯蔵庫としても最高だ。
 菫の家とは、そうした葡萄酒の貯蔵庫兼横穴住居のひとつだった。
 帝都に旅立たれるエリス姫に、菫の香りのする葡萄酒を貯蔵していた場所ごと私がさしあげたものだ。ここに納め…[全文を見る]

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歓びの野は死の色すのことを語る


「御用とあればこちらから馳せ参じましたものを」
 如才ないあいさつとはいえないが、私は一応、筋を通した。
「こっちの用だから、それはかまわない。それより伯爵、無腰で歩いて不安じゃない? じゃなきゃよっぽど腕に自信でもあるとか?」
 彼女の視線が腰におち、私は苦笑でそれを受け流した。
「そうではありません。この街で私を襲うものがあるとすれば、流れ者だけですよ。
 身構えれば身構えるほど、相手も緊張するものです。幸いなことに、この街に住む者であればみな私の顔を知っています。私は金銭も持ち歩いていませんし、指輪も何もしていない。私…[全文を見る]

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 これでいい……。
 私はオルフェ殿下の前を辞去し、自分に言い聞かせるようにうなずいた。
 決意というほどのこともなく、ただそれが己に課せられたものと確認する意味で。
 八年前、私は自分の住まいをこの小さな太陽神殿に定めた。
 大陸でもっとも多くの人たちに信奉されている太陽神も、この国では影が薄い。
 なにしろわが神は、そのはじめは《死の女神》の息子にして恋人であったのに、彼女を裏切って闇を裂き天空を治める神となったのだ。
 この国のひとびとは不実の罪は重いと感じているらしく、太陽神殿は建造された当時のそのまま姿で、街の東の外…[全文を見る]

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「殿下、こんなところにお独りで、どうされたのですか?」
 ぼくは内心、ひどく焦っていた。用意のないときの自分はこんなにも心弱い。鼓動が乱れ、浅く息をついだぼくを、ルネは心配そうに伺い見た。
 ばつの悪さに、ぼくは大理石の床を見つめてうなだれた。
「もしや、エリス姫からこちらの壁掛を取り戻してほしいと頼まれたのですか?」
 どうこたえようかと思案していると、彼はこちらへとまっすぐに歩いてきて、すぐ横に立って壁面を見た。
「私はいつも、あの騎士が殿下に似ていると思うのですよ」
 ほら、と彼は指をさした。
 ぼくはつられて顔をあげた…[全文を見る]

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 もうすぐ完成という大神殿はどこもかしこも新しい匂いがした。
 削られた木屑の香りを吸い込み、乾ききらない漆喰壁を眺めて歩くと、エリゼ公国の跡継ぎがわざわざ視察に来たのだと、あちらこちらで気合をかける声があがる。
 ぼくは彼らの邪魔をしたくないので石工の棟梁や工房の主たちに目配せし、そのまま作業を続けてくれと指図する。すぐにその場は活気を取り戻し、小気味いい空気が満ちわたる。ぼくはほっと息をつき、賞賛の声のかわりに振舞い酒を用意する。
 反対に、小うるさくつきまといたがる神官たちには邪険にふるまう。こういう手合いは、かえっ…[全文を見る]

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歓びの野は死の色すのことを語る


 アレクサンドラ姫が退出してすぐ、隠し扉のむこうに佇んでいた人物が姿をあらわした。なにか思うところのあるような顔をしていたので、訊いてみた。
「あの姫君をどう思いますか?」
「どう、とは?」
「ぼくの依頼を実行してくれそうかどうか……」
 彼が素直にこたえるつもりはないようなので、かわって自分の疑問を口にすると、相手がいぶかしげに濃い眉をひそめた。
「殿下、貴方こそが、ヴジョー伯爵に惚れてたんじゃないですか?」
 黒衣の騎士のことばに、ぼくは微笑んでみせた。
 その漆黒の装束がものがたるのは、《死の女神エリーゼ》の神殿騎士たる身…[全文を見る]

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散らばる

「ようこそ、死の都へ」
 そういって微笑むオルフェ殿下は、この世のものとは思われないほど美しかった……。
 あたしは今、この日記を故国のことばで綴っている。この国でこれを読むことができるひとがいるとすれば、女公爵エリスだけだ。
 だから、彼女にはあたしのしようとすること、またはしようとしてできなかったことがわかるかもしれない。
 もちろん、あたしはそのことをエリスに知られたくない。
 それなのにこんなことをここに書いているのは、あたしがエリスにだけは嫌われたくないからだ。エリスにだけは、あたしのことを理解してほしいから………[全文を見る]

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散らばる

 あたしは椅子から腰をあげ、水を汲んでさしだした。
 エリスはお礼をいって杯を受け取り、肩をすくめて苦笑した。
「おれが寝台を占拠してしまったな」
 すっかり板についた男言葉。
「もう少し眠りなよ」
「いや。自室に戻る」
 こうなったら、こちらのいうことを聞かないのは承知していた。それでも、あたしには言うべきことがあった。
「ねえエリス、あたしと一緒に帝都に帰ろう」
 エリスは無言でこちらを見おろした。あたしはその鉄面皮に挫けずいった。
「皇帝陛下に頭をさげればすむことよ? 意地をはらなくてもいいじゃない」
「意地の問題で…[全文を見る]

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散らばる

 今夜のエリスはだいぶ様子がおかしかった。
 いま、彼女はあたしの寝台のうえで猫のように丸まって軽い寝息をたてている。断髪した髪のせいで、粗末な寝布にくるまった姿は囚われの罪人のようだった。
 あたしは寝るところがないので自分の机にむかって日記を書くことにした。
 戦士としての鍛錬のおかげで、あたしは少しくらい眠らなくても平気な質だ。それに、エリスはとても疲れている。眠ってくれるならそれでいい。
 先ほど、エリスはひとりで食堂に入ってきた。伯爵は一緒ではなかった。
 剣を返しに行くようにいわれたけれど、彼女をひとりにし…[全文を見る]

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 たしかに、エリス姫と結婚できないことは以前にも覚悟した。
 二十歳のとき、この方は皇帝陛下の寵姫になるために帝都にいくのだと諦めていた。だから、彼女を困らせてはならないと自制した。
 あの頃、この方は私を恋人だといってくれた。けれどそれは、ふたりだけの密かな睦言であって、誰かに知られてよいものではなかった。
 それに、まだ幼かったこの方が、恋とはなんであるか知っているとは思えなかった。
 図抜けて聡明な少女ではあったし、気持ちを疑っていたわけではない。それでも、私を好きだという少女らしい淡い気持ちを大事にするよりは、皇帝陛下をお…[全文を見る]

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 アレクサンドラ姫は姿勢をただし、すぐさまその場で片膝をついた。
「申し訳ございません」
「しおらしい顔をして謝れば許すと思うか。伯爵に剣を返して持ち場に戻れ」
 エリス姫は私の横をすりぬけて、それでも立ち上がろうとしない彼女の前に立った。
「恐れながら、わたくしの持ち場はあなたさまのおそばでございます」
「他の者は?」
 女戦士の姫君は口をつぐんだままだ。エリス姫の視線がこちらをむいた。私は仕方なく、要求するこたえを口にした。
「食堂で酒盛りでしょうね」
 エリス姫は瞳をほそめ、喉奥で小さく笑った。
「ヴジョー伯がとっておきの葡萄酒の…[全文を見る]

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歓びの野は死の色すのことを語る

「だいたい伯爵は意気地がない」
 白日夢のような回想を切り裂いたのは、女戦士の姫君アレクサンドラだった。
 私は思わず、背の低いむすめを凝視した。
 まさかすぐ目の前に立たれるとは、いや、扉の外に人がいるとは思ってもみなかったのだ。
「せっかく気をきかして二人きりにしてあげたのに、今日もすごすご引き返してきちゃうんだ。それでも名にしおう騎士の末裔かな」
 己の半分ほどしか生きていない十五歳のむすめに嘲弄されていたが、反論すべきことばさえ見つけられなかった。
 彼女は左手にもった私の剣をくるくると玩具のような勢いで回しはじめた。
 身に…[全文を見る]

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蒼 1

 父が壮絶な死を遂げたのは、私が六歳のときのことだった。
 父は河船を襲う盗賊団を征伐にいき、針鼠のような姿になって館に戻ってきて五日後、さんざん苦しんだ末に身罷った。
 生来頑健であった父は、並みの男なら半日もしないで事切れたであろう矢創や骨折の数々にもよく耐えた。 名門ヴジョー伯爵家の生まれらしく、弱音は一切はかずに逝った。
 そんな父が最期に私に語り聞かせたことは、いかにして盗賊の首領を討ち取ったかであり、敵が天晴れな騎士でなく下賤の盗賊であったのが心残りではあるが、民人を守る務めを果たした自分の働きに満足している…[全文を見る]

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歓びの野は死の色すのことを語る

「旅立たれた貴女様に、私がなにを書き送ればよかったのか考えてみたのです」
 いささか唐突にも思えたが、先日、おれがいったことを気にしていたのだろう。しばし耳を傾けることにした。
「貴女様を励まし気遣うようなことを書きながら、私は一度たりとも自分の想いをお伝えしませんでした。今さら書いても詮無いことだと思いましたし、貴女様のご迷惑になると考えました。それだけはしてはいけないと戒めていたのですが……本当に貴女様が望まれていたのは、そちらのほうだったのですね」
 黙したまま相手を見たが、彼にはそれで十分だったにちがいない。けっきょくのとこ…[全文を見る]

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歓びの野は死の色すのことを語る

「姫さま?」
「だからそう呼ぶなと申しておる!」
 声をあげて見据えると、男はなにも聞かなかったような顔で続けた。
「おかけになられたらいかがですか」
「そなたにいわれなくとも座るさ。ここはおれの執務室だ」
 立ったままのそいつの横をすりぬけて樫の木でできた大きな執務机へとむかう。
「失礼ながら、ここでお仕事をなさっているようにはお見受けできませんが……」
 彼は腕を組み、ため息をついて室内をぐるりと見渡してみせた。おれは机のうえに花瓶をおろし、両手を腰においてしみじみ部屋を眺めてみた。
 いやはや、惨憺たるありさまだ。
 この部屋には死…[全文を見る]

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はねる

 帝国領エリゼ公国のひなげしは青い。
 いや、正確には公国の西南に位置する《歓びの野》に咲く花だけが青い。
 伝説によれば、この国の守り神である死の女神エリーゼの血は青く、その傷から流れ出た血によって染まったものだという。
 おれは白いひなげしを山とさした花瓶を捧げもって歩いている。こんなものを自分で部屋に運ぶなぞ、生まれてはじめての経験だ。本来ならおれを補佐する神官見習いか侍女の仕事だろうが、あいにく人手がないので致し方ない。
 しげしげと見つめた花びらはパピルス紙のように薄く、細かなひだが寄っている。
 子供のころ、ど…[全文を見る]