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歓びの野は死の色すのことを語る


「はなしをエリス姫の行方に戻しましょうか。
 姫様は古神殿から西へと連れ去られたものと思われます。今頃は、モーリア王国へ行けと脅迫されておいでのことでしょう」
 脅迫という言葉に眉を顰めた私を、彼は口の端を歪ませて見つめた。
「やんごとないご身分の方ですから手酷い真似はされていませんでしょう」
「己の意思によらず連れ去られてもか? 女戦士たちもいなくなっているのだぞ」
「もちろん、それは非道だと思ってます。だからこそ、救出すると申し上げているのですよ。こんなやり方が罷り通る国は健全とは言い難い。
 とはいえ、宰相とオルフェ殿…[全文を見る]

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 私は執務室へ向かう前に厨房に寄ることにした。この時間なら、作男のジャンかアンリ、またはニコラが料理をしているはずだった。さまざまな香料の混ざり合った羹の匂いが鼻をかすめ、今日の料理はニコラだと見当をつける。ジャンは食べる物に拘らず、アンリは贅沢を戒める。エミールには料理番を任せていない。エミールは子爵家の長子らしく肉は鮮やかに切り分けるであろうが、煮炊きが得意とは聞いたことがない。上級職を目指そうというのだから覚えておいて損はないが、神官職の試験を終えてからでも間に合うだろう。
 トマはすぐ後ろをついてきたが、戸口の前…[全文を見る]

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 どうやら、私の中にも軟禁されていたあいだの鬱屈はたまっていたらしい。
 考えなければならないことは山ほどあるが、風を受け、馬の体温を感じながら疾駆する悦びは忘れがたい。
 10年前、まだ幼くていらしたエリス姫は、子馬に乗っておいでだったはずだ。乗せてさしあげ、《歓びの野》まで走ったこともある。
 年若いむすめなら馬や高いところを怖がったりすると思っていた大方の予想を裏切って、あの方は私にしがみついたりなさらずに、可愛らしい笑い声をあげてもっと早く走ってくれとせがんだりした。胸の下にまわった姫様の小さな両手を上から握り締め…[全文を見る]

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 若者はすなおに頷き、私のあとをついてきた。
 日はまだ西に落ちるには早く、城壁にうつる塔の影はぼんやりと引き伸ばされて歪み、斜めに傾いで並んでいた。
 煩いほどに鳴く烏の群れのほうを見やると、先週処刑されて塔に吊るされた夜盗の遺骸がひとつ、地面に腐り落ちていた。まかり間違えばああなっていてもおかしくはなかったのだと思うと、いつもはさして気にとめない腐臭がやけに鼻についた。
 オルフェ殿下は残虐な刑を好まれない方ではあるが、祝祭事の少なくなった今、処刑は大きな見世物だとよく心得ておいでだった。
 牢に送り込まれた後、ひとり…[全文を見る]

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 礼拝堂を出て、私は早足で前をいく母の隣に並び、声を落として尋ねた。 
「母上様、いったいこの準備は」
「宰相閣下から帝国の姫君をお迎えにいく件は前から依頼されていました。少々日が早くなっただけのことです」
「それは存じています。そうではなくて」
 母の緑色の瞳が私を射竦める。
「あなたはもう事件の真相が見えているはずです。いい加減、諦めなさい」
「……エリス姫を、ですか?」
 ついと顔をもどした母は、足をとめた私を振り返らずにいった。
「他人を思い通りにする欲望を捨てなさいといっているのです」
「私は」
「姫様はあなたと一緒にい…[全文を見る]

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 殿下はそれを聞いて難しい顔をした。それから小さく息を吐いて、あたしの顔を見て、こういった。
「ぼくは、好きな相手を傷つけることなく愛することのできる人間ばかりだとは思いません。ですが、そういうふうに考えられる貴女は是非ともそのままでいていただきたいですね」
「……それ、馬鹿にされているようで腹が立つんだけど」
「馬鹿にしているわけではないですよ。ただ、エリスは本当に貴女を大事にしたのだと感じただけです」
 そのことばには、胸を衝かれた。 
 あたしは、幸か不幸か帝国の皇女に生まれてしまった。
 でも、正式な結婚によって生まれ…[全文を見る]

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「貴女も、逃れたかったのではないのですか? エリスの護衛などに身をやつして、皇女というこの上もなく高い身分から逃げ出そうとしたのではないですか?」
「もうそれはやめた。だって、エリスに断られちゃったから。
 あたしはエリスが皇后になって陛下の子供を産んでくれればいいと思ってた。たぶん、陛下もそう思って最後に結婚してくれって言ったのに、エリスってば、嬉々として国に帰りますって返すんだもん。
 あれはちょっと、陛下が可哀想だったな」
 あたしが笑うと、彼は困ったように眉をさげて尋ねた。
「エリスは堂々とお断りしたということですか…[全文を見る]

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 暗闇の中、あたしはオルフェ殿下の隣で膝をかかえて座っていた。
 何故なら、ふたりは道に迷ってしまったからだ。
 ううん。
 これから、道に迷おうとしているというほうが正しいかもしれない。
 古神殿と呼ばれる場所のすぐちかくまで来て、殿下は標がなくなっていることに気がついた。たしかに、今まで見てきた文様がそこでなくなっていた。
 もと来た道を戻ればいいと口にすると、殿下はゆるゆると首をふった。
 何かがおかしいというのが彼の言い分で、あたし自身もそれは感じた。
 この異変にも、ふたりして恐慌状態に陥るわけでもなく、今後のことを…[全文を見る]

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細かな文様
19

 脅しのつもりはなかった。
 それはトトも承知していたはずなのに相手はただ肩を揺らして笑い続けた。
 その様子を不審に思ったが、あえて、そのことに触れなかった。
「ほんとうに、変わりませんね」
 変わらないわけはないと言ってやりたかったが、おれの唇は相手のそれで塞がれた。おれは目を開けたまま、甘んじてそれを受けた。
「色気のない。目を閉じるくらいしませんか」
「してどうする」
「あんたに会いたい一心でここまで来たのに」
「おれに復讐しに来たとでも言うつもりか?」
「……恨んでいないとはいいませんよ」
 その正直なことばに…[全文を見る]

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18

 おれの目に映ったのは、弓矢をつがうサルヴァトーレの姿だった。ほっそりとした肢体を卑しい黄色の上下に包み、悠然とかまえている。その杏仁形の双眸はひたとおれを見つめ、獲物を捕らえる愉悦に燃えていた。
「走れっ」
 アラン・ゾイゼの声に、弾けたように我に返った。
 肩に突き刺さった矢を引き抜く騎士団長は、剣を抜いて背を押した。おれは怪我人を置き去りにすると決めて、階段を蹴る。
 あの男にだけは、捕まりたくない。
 荒れた呼吸に、剣戟の音さえもおれの耳には届かなかった。
 どのくらい石段をおりたかわからなくなったころ、突…[全文を見る]

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17

「そなた、本当にオルフェが好きなのだな」
「好きでもない君主のために命をかけて働けますか?」
 真顔で返した男に、おれは首をふった。
 この男が傭兵という身分から、騎士団長へと這い上がったのはただオルフェのためだと知って、おれは自分が殺されようとしていることをいったん忘れた。
 だが。
「おれはだから国を出ようとしたのだがな」
「あなたがたとえ国外に出ようとも、オルフェ殿下のおこころは休まりませんし、ヴジョー伯爵は殿下をお恨みするでしょう」
「オルフェも伯爵も、それほど臆病でも狭量ではないと思うが」
「それはあなたが…[全文を見る]

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16

「大砲と交換されるのは癪に障るな」
 おれのつぶやきに、男は憎らしいくらいの勢いで今度こそ声をたてて笑った。それから、おれのすぐ前まで歩いてきた。
「葬祭長閣下、そろそろこちらの尋問におこたえしていただいてもよろしいですかね」
「こたえるかどうかはおれ次第だがな」
「拷問されないとお思いですかね」
 そう。月の君に引き渡されるのだとしたら、あの男がおれに傷をつけて赦すとは思えなかった。だが、
「爪を剥がしたり吊るして鞭打ったりしなくとも、拷問など幾らでもできますぜ」
「だろうな」
 おれだとて、そのくらいのことは知っ…[全文を見る]

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15

「その調子で精鋭の皇帝軍ってえやつを貸してはくれませんかね」
「それは無理だろうな」
「あなたが頭をさげても?」
「あのひとは、一度たりともおれの願い事をきいてくれたことがない」
「じゃあ、大砲を使わんとならんのですよ」
「あれは禁じられたそうだが」
「やめろと言われて、そのままにできますか?」
「できまいが……長弓ならともかく、あれはそんなに有用なものなのか?」
 アランが小馬鹿にしたように鼻で笑って首をふる。
「見たことがおありで?」
「ああ。黄金宮殿にもあったし、父上が城に備えてあるのを見たことがあるが」
「黄金宮殿…[全文を見る]

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14

 となれば、宰相ゾイゼが何処まで知っていたか疑わねばなるまい。
 おれが干されたのはこのせいだったのだ。
 あんなふうに気遣わしげにおれを見送ったのは、口封じに殺されるなと身を案じられたせいだろうか。
 いずれにせよ、こうして正体を見せたのだから、この男はおれを生かしておく気はないのだろう。ならば何故はなしなぞするのか、また何故に女戦士たちを捕らえたままなのか、おれには見当がつかなかった。
 無駄なことをする質にも思えないとその顔を見ると、相手はおれを跨いだままこちらの頤をつかんだ。
「殿下とこんなに似ていると思っ…[全文を見る]

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13

「エリス姫」
 男の声に振り返ると、松明の火に見覚えのある姿が浮かび上がる。
 ばさりと漆黒の長いマントを翻す音が聞こえよがしに響き渡り、その黒衣がしめす身分を明らかにした。 
「アラン・ゾイゼ騎士団長」
「名前を覚えていただいていたとは光栄ですね」
 薄ら笑いに視線をはずし、本来なら、レント共和国までオルフェの妻となる帝国の姫君を迎えにいっているはずの男をおれはもう一度、頭をたたせて睨みつけた。
 すると、松明を持った男はむずとおれの腕をつかんで寝台へと押し倒した。
 身をよじって逃れようとすると、男の手が髪をつか…[全文を見る]

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12

 それからおれは長持ちの中にあった革袋の口をまずあけた。
 においを嗅いだかぎりでは酸っぱくなった安物の葡萄酒で、なんの香り付けもされていないようだ。唇を近づけると唾液で口腔が潤うほど酸味がつよい。すでに酢になってしまっているかのようだが我慢すれば飲めないこともないだろう。
 毒物の恐れは払拭したが、今ので喉の渇きは癒された。
 パン種に毒をいれる面倒はかけないにちがいないと黒パンをつかみ、あまりにも固くて閉口した。焼いてからずいぶん日にちがたっているのだろう。羹にでも浸して食べるべきものだ。
 そんな贅沢なこと…[全文を見る]

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11

 目がさめて、さいしょに気がついたのは饐えた汗の臭いだった。黄ばんだ埃まみれの亜麻の敷布に頬があたっていて、おれはぞっとする思いで頭をおこした。
 後ろ手に縛られて寝かされていたのはまがりなりにも寝台で、服は男物のままで、乱れてはいない。ただし、腰の短剣は吊り帯ごと奪われていた。隠しの財布もない。
 おれがはじめに感じたのは不安でも恐怖でもなく、凄まじいまでの憤りだった。
 危うく声をあげてしまいそうなほどの瞋恚に荒くなった呼吸をおさえ、じっと耐えた。
 口を緘されていなかったということは、声をあげれば助けがくる…[全文を見る]

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歓びの野は死の色すのことを語る

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10

「何故、神殿騎士を手配しないのですか?」
「それは伯爵もお察しのことでしょう」
「エリス姫の御無事を確認すること以上に優先すべきことがありますか?」
 それを聞いた宰相は、声をあげて笑い出した。
「ゾイゼ宰相」
 私の視線に、彼は笑いを納めて頭をさげた。
「失礼。私個人としてはそう思いたいと願いますが、公国の将来を憂えればそうとは言えませんな」
「あの方を犠牲にして、いったい何を守られるというのですかっ」
「あなただとて十年前、御自分の将来と領民のことを思い、エリス姫を諦められたのではないですか? またつい先日は、モ…[全文を見る]

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「これは、オルフェ殿下宛てでは?」
「封蝋に見覚えがありませんか?」
 私は、それがあの方個人の紋章かと思っていたが、違った。
 その表情をよんだ宰相が、断じた。
「モーリア王国首都のカレルジ銀行支店長の印です」
「ええ、知っています」
 カレルジ銀行――この大陸でもっとも著名でもっとも富裕な一族の有する銀行だった。
「それからこちらも」
 もう一通もまたカレルジ銀行のもので、封が開いていた。しかも帝都の本店の頭取印ではあるらしいが、それは私の知らない紋章だった。
 そして、そのときになって初めて、私は帝都のカレルジ銀行の…[全文を見る]

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 私は返答を控え、その分厚いからだが自分の横を通り過ぎていくのをみるにとどめた。
「私には、伯爵より幾つか年上の娘がおります。ご存知ですか?」
「いえ」
「めったに家の外に出ることのない女ですからな。出たとしても、ヴェールを被らずにはひとに会いません。顔に、火傷の痕があるのですよ」
 私は彼がモーリア王国からの逃亡民だと思い出した。
 この国に来たのは、二十年ほど前になるか。とすれば、彼女が傷を負ったのは戦争による焼き討ちの被害にあったのだろうと見当をつけた。
「そう……ご推察どおり、モーリア王国の都市抗争に巻き込まれ…[全文を見る]