外伝・月の石
4
「女神の娘とは?」
「エリゼ公爵家に生まれることのある、女神と同じお姿の寵児のことをさします」
彼は滔々と淀みなくその娘について語った。
今は公爵家の城でなく、古神殿という場所で大教母によって教育されていること。
その姿を見ることは滅多にできないこと。幼いながらたいそう聡明で、また女神そのひとのように美しくなるに違いないと言われていることなどを。
わたしは、エリゼ公爵家がたしかに美貌の一族であると知っていた。
一度、その「大教母」とやらには会ったことがあるのだ。
背が高く黒衣の似合う、ぞっとするほど美しい…[全文を見る]
外伝・月の石
3
川向こうにあるのは、《死の女神》の神殿だった。
四角い石を重ねた古めかしい建物はその小ささによらず、目をひいた。女神の神殿らしく、どことなく瀟洒な趣がある。ことに白亜の回廊の美しさは格別なもので、信者ではないものにも開放していると聞いたことがある。
わたしは彼が《死の女神》を守護神とするエリゼ公国から来ていたことを思い出し、遠慮なく口にした。
「故郷が懐かしいのか?」
その問いには頬に血をのぼらせた。落ち着いたところがあると見ていたが、そこはやはり十五、六歳の少年らしさがのぞいた。
わたしの微苦笑に、彼は…[全文を見る]
外伝・月の石
2
夏至祭のことだ。
皇帝陛下の先祖たる太陽神を寿ぐ祭はよっぴいて行われ、七つの丘は祝祭の熱に彩られた。
公式行事に参加する資格のないわたしは、黄金宮殿の自室に引きこもり不貞寝するつもりが、歓声や楽隊の音だけでなく、ひとのざわめく気配のあまりの猥雑さに落ち着きなく身体を起こした。
仕方なく髪をひとつに束ね、持っている服のなかでいちばん飾りの少ない薄青の上下をまとい、腰に細身の剣を穿いて部屋の外に出た。
こうすれば、わたしの顔を知らないものにはただの貴族の子弟に見えるに違いない。
平民でありながら、わたしは帯剣…[全文を見る]
月の君とルネ・ド・ヴジョー伯爵の帝都での物語
外伝・月の石
1
わたしは日々に厭いていた。
勉強にも色事にも、政治はもちろん本業である金勘定に至るまで、どうしようもなくつまらないものだった。
それでもわたしは帝都学士院の講堂にいた。
15歳になったわたしは皇帝陛下からそこに通うように命じられていたからだ。
国の将来を担うため、または自身の栄誉栄達のために大陸中からとびきり優れた若者が集うその場所で、肌を焼くような彼らの熱を疎んじて、わたしは瞳を伏せて息をはいた。
目立たぬふうを装い、供もつけずに腰かけていても、淡い色の金…[全文を見る]
外伝「黒髪」
じゃきり、じょきり。
音がするたびゾロリと長い房が落ち、襤褸布のうえに黒蛇がのたうつ。
死の女神は、復讐の念に燃えるとその髪が蛇に変わるという。あれはこの様をさすのかと、おれは今さらに伝説の意を悟る。
おれは、自分の髪が好きではない。
否、正確にはあの日まで、好きではなかった。そして、『あの日』などというものを何年も覚えていて忘れられない己というものこそが、太陽の神に忌み嫌われた死の女神の執念深さに通じて腹立たしい。
おれはため息をついて手を止めた。
周囲にはべる人間がいない不便と自由をかみ締めて、もう一…[全文を見る]
騎士
10
そんなことは知っている、このオレをなめるな。
そう罵ってやろうとしたはずが、唇は無残に震え、言葉を紡ぐことなく閉じられた。
アウレリア姫――夢か幻かと思い続けたオレの命の恩人、盗賊に誘拐された幼いオレを救い出してくれた乙女は、帝国の姫君であったのだ。
恐るべきことに、それが「現実」だ。
身の回りの人間を惨殺された衝撃のためか、オレはいっとき言葉を失い、当時の記憶そのものに欠落がある。だが、傷を負った小さな身体を抱きしめて安心させてくれたひとの、やわらかな胸と甘くやさしい花の香り、その麗しき相貌は忘れたことがなか…[全文を見る]
騎士
9
それからアンリはふと視線をはずし青銅製の衝立へと顔をむけた。天才芸術家サルヴァトーレ作と云われる華麗極まる祭壇衝立は、通常とちがい無味乾燥な背のほうをこちら側に見せている。向こう側におさめられているのは『騎士』の肉体に他ならない。
もとは書庫であった場所――つまり当時、ゾイゼ大神官の命により新神殿に遺贈された葬儀録等が置かれていた図書室――の書棚などを取り払い、エリス姫はそこにルネ・ド・ヴジョー伯爵の肉体を安置した。
かの女公爵がエリゼ城に起居したことはご存知のとおりだ。彼女は国主であり、その城の持ち主本人なのである…[全文を見る]
騎士
8
「目を覚まされましたか」
ヴジョー伯爵の長髪が額をかすめ、汗のにおいが鼻をついた。臭いのはいやだと断りをいれたのに、こいつが風呂も入らず闇雲に押し倒してきたのだと思い出す。
どうやら絶頂で気を失ったらしく、のぞきこむ顔は笑み崩れている。
公国一の美男がなんとしたことだ。宮廷の女官どもにこのやにさがった助平面を見せてやりたい。しかも、むっとするほど雄臭い。洗い立ての亜麻布に、埃にまみれた馬の獣臭さと汗を吸い込んだ革の饐えた匂いが充満している。オレはなんでこんな奴に圧し掛かられてよがっていたのか自分を疑う。こたえは明…[全文を見る]
騎士
7
エリス姫の呪い――それは、『騎士』に手を触れるものへの警告にとどまらず、この世界への呪詛がこめられている。
騎士に手を触れるものあらば、太陽もろとも地は崩れ去り
青きひなげしをみだりに摘むものあらば、そのもっとも愛するものを奪う
エリゼ公国に山がないのは知ってのとおり、この国には火山帯がない。地震とは無縁の土地柄だ。いっぽうで、夜が明けないという恐怖は古代から語られてきた。日の神が殺される伝説――つまり、「日蝕」である。
月の神が兄の日の神エリオを陥れる神話は古来数多く伝えられている。この神話に由来して、月神の信…[全文を見る]
騎士
6
アレクサンドルの呼びかけにこたえて振り返り見たのは、声をかけた当人でも副官アンリエットでもなく、橘卿のなにか言いたげな黒い両目だった。彼女――僕はすでにそれを知っている――はオルフェより優れた能力者であり、その来訪はアレクサンドル一世によって預言されていた。
そのことをオルフェは知らない。否、彼だけが、知らない。と言っていいほど《夜》の関係者のあいだでは著名な預言であった。
そしてまた、僕の双子の弟のオルフェは、僕の本当の「弟」ではない。
彼は、この《夜》のために特別に創られた存在で、女神の神殿が秘儀のすべてを注ぎこ…[全文を見る]
騎士
5
兄とアンリエットは並んで先を進んでいた。カンテラを持っているのは当然のこと男装のアンリエットのほうだ。そして僕は、どうにかして彼女とふたりだけで《夜》を回避すべく話し合いたかったがこうなってしまってはどうにもならない。タチバナ卿は先ほどまでは僕の焦りを察してくれていたようだったが、いざ地下道におりると両目を輝かせて曲がり角のしるしを見つけては、これがあの道順を示す記号ですかなどと尋ねてこられた。それに上の空でこたえるわけにもいかず、知っているかぎりのことを話さなければならなくなった。そうしてみると、この少年は十三歳…[全文を見る]
騎士
4
トマスはぎょっとして目を見開いた。かろうじてその場に留まったが、緊張のためか、わずかに肩はあがっていた。そうした一連の自分の反応が目の前の白装束をきた聖職者への嫌悪感に基づくものと悟り、あからさまに赤面した。シャルルは先ほどから何も変わらないというのに、ただその言葉を聞いただけで態度を変えた自分を彼は恥じた。対して、神官シャルルは穏やかな声でつづけた。
「クレメンズさん、何かを明かすというのはこういうものです。知ればどうにかなるということではありません。むろん、互いの理解のためには壁を乗り越えて打ち明けていかなければ…[全文を見る]
騎士
3
「ほんとうに、百年以上前に死んだ方が【召喚】されているのですか?」
たしかに【召喚】されていた。ただし、それはオルフェ七世の純然たる能力のみに帰せられることではないのだが、いまここでそれを語ることは避ける。また、その死者の【召喚】という秘儀について、若い国からきた青年がどの程度理解しているかも疑問だった。いちおうトマス・クレメンズの名誉のために断っておくが、彼は『歓びの野は死の色す』その他の《夜》に関する書物はひととおり紐解いていたし、エリゼ公国や大陸全土の歴史についても無知ではなかった。それでいながらすこしばかり世…[全文を見る]
騎士
2
黄金の巻き毛のしたで水色のひとみが煌いた。トマスはかるく息をのみ、つづきを待った。
「エリス姫の遺言により、『騎士』に手を触れることは許されていません。ですが、その姿をみることはできます。ぼくの目では、ヴジョー伯爵はとうてい死んでいるとは思われません」
「屍蝋化した遺骸ってのは見たことがあるが……この国のひとびとは、呼吸や鼓動くらいたしかめたって罰はあたらないと考えなかったってことですか?」
「もちろん、『騎士』の身体を科学調査すべきという意見は多々ありました。ですが、《死の女神》教団がそれを許容しませんでした。現実的に…[全文を見る]
騎士
1
ここで、ふたたび時をもどす。
『騎士』をどのようにすべきかと悩み、彼のいた「時」へと帰そうとするものたちの時代へと。
オルフェ七世を含めた四人が宰相の次の間から地底におりきったころ、ふたりの人物が古神殿に到着した。ひとりは純白の式服に泥はねがつかないか気にしながら門前へと足早にすすみ、もうひとりは一張羅の三つ揃えが濡れることを厭うたが、それにもかかわらずゆっくりと、まるで水の上をわたる風のような足取りで聖域を歩いた。ふたりは古神殿の表門でなく裏手、かつて捨て子を受け入れるためにおかれた目隠しのある扉と嬰児の受け皿…[全文を見る]
白のエリス姫
6
それを聞いたアンリは肩をそびやかして反論した。
「貴女様のような方にお仕えるのは気苦労が絶えず大変ですが、わたしは無能な人間は反吐が出るほど嫌いなので、公爵様からお暇を出されない限りはこの国で働かせていただくつもりでいます」
「それはおれへの追従か?」
「騎士らしく、敬意(オマージュ)を捧げさせていただいたつもりですが、お気に召さなければ撤回いたします。忌憚なく申しますが、わたしは、君主とは民を守り導く『父』であると教わってきて、いまもそうと信じています。貴女様が女性であられるのはわたしには不都合な事実ですが、…[全文を見る]
白のエリス姫
5
アンリは反論せずにはいられない自分を殺したくなったが、それは言われたほうも同じ気持ちだった。だから彼女は囁くように笑ってつぶやいた。
「たしかに、死んでいるわけではない」
「ええ、そうです」
「だがな、ルネが死んでいてくれたほうがよかったと思うようになるとサルヴァトーレに言われたとき、おれは、なにもこたえられなかった」
「公爵様?」
「ルネが生きていればこの国がむざむざ侵略されることはなかっただろうと思い、モーリア王に結婚を迫られたときにも、ルネさえいればこんなことにはならなかったと思う自分が情けなかった」
「そ…[全文を見る]
白のエリス姫
4
こたえは決まっていたが、アンリも命は惜しかった。
「皇帝陛下のご命令に背くと如何様な処罰があるのでしょうか?」
「そなたが陛下へ尋ねればよい。おれは知らぬ。黄金宮殿で申し開きして来るのだな。おれが断ったわけではないと書いておく」
アンリは謀られたことを知って顔色を変えた。座したままの公爵は血のように赤い唇をゆがめて、こんな手にかかるとは、そなたらしくもないと笑った。
「恐れながら」
「言い訳は許さんよ。陛下はこのおれにどうしても夫を用意したいらしい。早く言えば、国の安泰のために子を産めということだ。ヴジョー伯爵…[全文を見る]
白のエリス姫
3
「公爵様」
騎士アンリは常に、どんなときでもこの国の君主を名前では呼ばない。それどころか、故意になのか、たまにその敬称を男性名詞と同じように発音する。呼びかけられたほうも同様に男言葉を用いているためそれで問題にはならないが、居心地の悪い思いをする側近たちもいなくはない。
今日は、後ろに控えていたサルヴァトーレの一番弟子が責めるような目つきで彼を見たが、もとより呼ばれた本人が気にしていないのだからアンリも気にしようもない。
卓上には、鳥人が描いたとしか思えない精密な地図と、船の模型がおかれている。今まで筏で…[全文を見る]
白のエリス姫
2
そして、宰相の次の間に落ちた沈黙をわずらわしく思ったのは異国の大使ではなく、それを自らつくりだしてしまったオルフェ七世のほうだった。彼は自分の不器用さに苛立つかわりに少々おおげさなくらいに落ち込んで、では、これにて失礼させていただきますと口にした。橘卿は、目の前の青年はアンリエット嬢に用事があったのではないかと思ったが、それをあえて問題にしないだけの分別という名のやさしさがあった。ところが、往々にしてそうした分別も思いやりもないのが身内 というもので、まさに彼が退出しようとしたそのとき、この国の公爵アレクサン…[全文を見る]