昭和五十年に行われた”古代船野性号”の航海では、釜山から出航すると、潮に流されて自力では対馬に着けなかった。だから実際にはもっと西から出たのではないかという(張明澄氏など)。
対馬海峡の潮流も同様なので、対馬からは→沖ノ島→宗像の方が着けやすかったかもしれない。
逆に、帰りの便は、同じ理由によって、東松浦半島→壱岐→対馬→金海という航路を想定できる。
だとすると、行程記事のうち、少なくともこの部分は、復路の記録を逆向きに並べ替えたことになる。
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魏志倭人伝のことを語る
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海流・季節・風を考慮して、韓国から九州へは宗像のあたりに着けるのが良いと仮定する。
銅鏡百枚などの荷物を運ぶためには出来るだけ川を使い、投馬国を経て邪馬台国に入る。
邪馬台国の首邑は甘木市のあたりと考える。
帰りは宗像からでは海流に押されてしまい金海(狗邪国)へは着きにくいので、唐津か呼子から出港するため、陸路で不弥国、奴国、伊都国を経て末盧国に至る。

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「年已長大」について、用例を調べてみた。
呉書巻七に「年已長大」と同様の文があり、曹丕についてそう言っている。曹丕(魏の文帝)は四十歳で死んでいるし、文脈から見ても高齢という意味ではない。
他の年齢について「長大」と言っている箇所をざっと見ても、「成年に達した」とか「成人している」という程の意味合いで、やはり高齢ということではない。
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補足。<拝仮>は三国志の中で調べると、巻三十の他は巻二十六と巻二十八に用例があり、いずれも「皇帝になりかわり官位などを授与する」というような場合に使われている。
「仮(假)」の原字「叚」は「覆いをかぶせる」ことを表す。皇帝が官位などを授与することを「仮する」という。
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補遺。「邪馬壱国(邪馬壹國)」について。
『三国志』の現存するものは全て「邪馬壹國」に作る。他の史書等の記述は次の通り。
『後漢書』には「其の大倭王は邪馬臺國に居る」とある。
『隋書』には「邪靡堆に都する、則ち魏志にいわゆる邪馬臺國なる者なり」とある。
『梁書』には「又南に水行十日、陸行一月日にして祁馬臺國、即ち倭王の居する所に至る」とある。
『翰苑』の倭国の項には、「憑山負海、鎮馬臺、以建都」とある。
『太平御覧』にも「邪馬臺國」とあるそうだ。
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壱与遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人送政等還因詣臺献上男女生口三十人貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雑錦二十匹
壱与は倭の大夫・率善中郎将の掖邪狗ら二十人を遣わし、政らが還るのを送らせ、因って臺(朝廷)に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千・孔青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢した。
…本文はここで終わっている。
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更立男王国中不服更相誅殺当時殺千余人復立卑弥呼宗女壱与年十三為王国中遂定政等以檄告喩壱与
男王がついで立ったが、国中服さず、さらに誅殺しあい、その時千余人を殺した。卑弥呼の宗女、壱与、年十三なるをまた立てて王とし、国中遂に定まる。政らは檄を以て壱与に告喩した。
…「壱与(壹與)」は『梁書』と『翰苑』には「臺與」とある。
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卑弥呼以死大作冢径百余歩徇葬者奴婢百余人
卑弥呼は死んだ。大いに冢を作る、径百余歩。徇葬する者、奴婢百余人。
…「以」の字は「~もって」の意味にとるとここの文が読めなくなる。例えば岩波文庫『中国正史日本伝(1)』では「卑弥呼以て死す」と読み下しているが、これでは漢文法を無視しているだけでなく和文としても意味をなさない。「以」は「已」と縁が深く同音で、ここの「以死」は「已死」に同じ。つまり dead である。
…この当時、中国では墳墓の流行が過ぎ一旦廃れている。卑弥呼の墓が「冢」だというのは、その観念における「墳」に当たるものでなかったことを示している。
…徇葬の字義は「殉死」と同じくない。「陪葬」の意味にとってよければ考古学的知見に近づく。
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金印が出たのは志賀島ですしあれは漢朝のハンコですし。
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其八年太守王頎到官倭女王卑弥呼与狗奴国男王卑弥弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拝仮難升米為檄告喩之
その八年、(帯方郡の新しい)太守王頎が官に到った。倭の女王・卑弥呼は狗奴国の男王・卑弥弓呼と素より不和で、倭の載斯・烏越らを遣わして郡にいたらせ、攻撃しあうさまを説かせた。(帯方郡は)塞曹掾史の張政らを遣わし、よって詔書・黄幢をもたらし、<拝仮難升米>、檄をつくってこれに告諭した。
…「檄」は現代日本語でも「檄を飛ばす」と使うが、元来は人に何らかの行動を要求するための布告や信書。「飛檄」とは急ぎの檄、檄を急いで回すこと。当然だがここの「檄」も漢文で書かれていた。難升米が洛陽に使いした経験があることを考えれば、彼は漢文が読めたのだろう。
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(中略)其六年詔賜倭難升米黄幢付郡仮授
その(正始)六年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮綬させる。
…しかしこの頃、楽浪・帯方と諸韓国の間に紛争があり、帯方太守の弓遵が戦死したため、黄幢はすぐには難升米の手には渡らなかった。
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正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭国拝仮倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡釆物倭王因使上表答謝詔恩
正始元年、(帯方郡の)太守、弓遵は、建中校尉梯儁らを遣わし、詔書・印綬を奉じて倭国にいたらせ、<拝仮倭王>、あわせて詔賜の金・帛・錦罽・刀・鏡・釆物をもたらした。倭王は使によって上表し、詔恩に答謝した。
…この<拝仮倭王>の部分を「倭王に拝仮し」と読み下す本が多いようだが、謝銘仁氏は「仮の倭王に拝し」と読んでいる。「拝仮」は倭人伝の中にもう一例「詔書・黄幢をもたらし、<拝仮難升米>、檄をつくってこれに告喩する」とある。謝銘仁氏は「仮の難升米に拝し」と読む。すると難升米が卑弥呼の名代を務めていたことを示しているのかもしれない。
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(中略)今以絳地交竜錦五匹絳地縐粟罽十張蒨絳五十匹紺青五十匹答汝所献貢直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華罽五張白絹五十匹金八両五尺刀二口銅鏡百枚真珠鈆丹各五十斤皆装封付難升米牛利還到録受悉可以示汝国中人使知国家哀汝故鄭重賜汝好物也
今、絳地交竜錦五匹・絳地縐粟罽十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹を以て、汝が献貢する所の直(値)に答える。また、特に汝に、紺地句文錦三匹・細班華罽五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚、真珠・鈆丹・各五十斤を賜い、皆、装封して難升米・牛利に付し、還り到れば録綬させる。悉く以て汝の国中の人に示し、国家(魏の皇帝)が汝をいとおしむことを知らしめるがよい。故に鄭重に汝の好む物を賜うのだ。
…考古学的知見と照らし合わせれば、ここでもらったもののいくつかは葬式道具になったのだろう。
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(中略)今以汝為親魏倭王仮金印紫綬装封付帯方太守仮授汝其綏撫種人勉為孝順
今、汝(卑弥呼)を以て親魏倭王とし、ひとまず金印紫綬を装封して帯方太守に付し、汝に仮綬させる(貸し与えるの意?)。その種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ。
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景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝献太守劉夏遣吏将送詣京都
景初二年(三年の誤りだろう)六月、倭の女王、大夫難升米らを遣わして郡(帯方郡)にいたらせ、天子に詣り朝献することを求める。太守劉夏、吏を遣わして送り京都(洛陽)にいたらせる。
…「難升米」の難は奴国の奴に通じ、その国名を苗字として負ったものかもしれないと森博達氏はいう。『後漢書』に「倭国王帥升等」と見える「帥升」は中国風の姓名を名乗ったものかと考えられ、難升米の「升米」も中国風の字(あざな)かもしれない。
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(中略)女王国東渡海千余里復有国皆倭種又有侏儒国在其南人長三四尺去女王四千余里又有裸国黒歯国復在其東南船行一年可至参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千余里
女王国の東、海を渡る、千余里、また国が有り、皆倭種。また侏儒国がその南に在って、人の長け三~四尺、女王を去ること四千余里。また裸国・黒歯国がまたその東南に在って、船行一年にして至るべし。倭地と参問すると、海中の洲島の上に絶在し、或るところは絶え或るところは連なり、周旋すると五千余里ばかり。
…台湾の学者、謝銘仁氏によると、「参問」は比較して聞くこと。「周旋」は巡回することという。
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自為王以来少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給飲食伝辞出入
(卑弥呼は)王と為って以来、見た者は少ない。婢千人を以て自ら侍せしめる。ただ男子一人が有って飲食を給し、辞を伝えて出入りする。
…この部分は筋が通っていない。婢が千人もいるのに有見者が少ないとはどういうことか。男子一人が飲食を給していたなら、婢千人の役割は一体何なのか。男弟氏は佐治国の任を負う重臣なのに、男子一人に辞を伝えてもらっていたのか。よく分からない。
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…「有男弟佐治国」について。ここを「男弟有り、佐けて国を治む」と読み下し、「卑弥呼は象徴的王者として祭祀だけを行っており、男弟が実権を握り政治を行っていた」と解説する本が多い。しかしこの文の上では「治国」の主権者は卑弥呼であって、匿名の男弟氏はあくまで補佐役と読める。
有名な稲荷山の鉄剣銘に「左治天下」という句が有るが、ここで「治天下」の主体は「ワカタケル大王」であって、鉄剣を作らせた「ヲワケ臣」は「左(補佐)」していただけである。倭人伝の「佐治国」も同じに読むべきだ。
後世的な男尊女卑観、「政治は男のもの」であり「女性がそれほど偉大な王であったはずがない」という思い込みで古代を歪めてはいけない。
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「年已長大」はどの程度の年齢を指すのか。おそらく「高齢者だ」というほどのことではなく、「成人して久しい」という程度の意味だろう。他の用例を探して検討したいが。
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…「能惑衆」について。「惑」の字の基本的な意味は「心を囲う」ことであり、だから「人心を掌握する」「人心を捉えて放さない」「人を他者によって動かす」意味になる。「能く衆を惑わす」と訓読すると、「王者なのに衆を惑わせている」のだから「指導者として不適格」ということになってしまい、文脈に合わない。ここは「人々をうまく制御している」という意味だろう。
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